瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

過食と欲求不満

2006年11月01日 | 断食・少食
◆『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え(Stillness Speaks)』エックハルト・トール(徳間書店、2006年)

「『つまらないなあ』。こう感じているとき、雑誌をめくってみたり、電話でおしゃべりしたり、テレビをみたり、ネットサーフィンしたり、買い物したりすることで、心の飢えをみたすことはできます。あるいは、心の欠乏と必要を身体上の飢餓感に置き換えて、過食することで一時しのぎの満足感を補おうとするケースも、決して珍しいことではないのです。」p45

そんなとき、かわりに「観察」という方法を試すことをエックハルト・トールは提案している。「退屈と欲求不満の状態にとどまり、それが『どんなふうに感じられるか』を観察する」という方法である。

実は最近私は、「過食」ぎみで62キロのベスト状態から3キロほど太った。朝食抜きは続け、昼食も少ないのだが、夕飯前後の間食が多くなっている。それもあって今日、私は一日半の断食中である。2週間ぶりの断食だ。

日中、空腹感はほとんどなかった。しかし、昼休みに何も食べれないのは、楽しみがひとつ奪われたような感覚がある。空腹感がないのに口元が淋しいのは、食べることで心の満たされない部分を満たそうとしているからだろう。やはり過食は「心の欠乏」と関係があるようだ。

過食の問題でも、単純で機会的なラベリングは効果がない。「食べたい」「食べたい」とラベリングしてもほとんど意味はない。それよりも、腹に空腹感がないのに舌が何かを味わいたいと要求している状態を観察するのだ。それがどんな欠乏や空白の埋め合わせなのかを感じ取ることだ。「つまらなさ」「充実感のなさ」「不安」「いらだち」‥‥。自分が何の埋め合わせとして食べたいのか感じ取って適切なラベリングを行うこと。

食べたい状態になったとき、これまではそこまで深めたラベリングはしていなかった。やはり「満たされない自己」が、食べることで何かを打ち消そうとしているのは明らかだ。そういう「満たされない自己」の状態を深く感じ取り、自覚化すること。
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