この場に書くことが、修行生活の大切な一部になっているという自覚が、最近、深まっている。ここにその日の「自我」のあり方やの営みに対するの気づきを表現することが、その気づきを定着させ自覚を深めるようだ。そのように自分への確認という姿勢で書くことが多くなっている。
今日のようにさえない日でも、書きはじめると、修行者の気持ちに返える。明日はもっと自覚的に生きようと、気持ちがリセットされる。
ところで最近の私の心随観の課題として思い浮かぶのは、次の三つだ。
1)過食にかかわる心理的欲求のサティ
2)怒りと恐怖にかかわるサティ
3)集合的なアイデンティティに関する優劣意識のサティ
3)に関しては、エックハルト・トールの言葉に次のようなものがあった。
「民族、国家、宗教が、敵対する相手をつくることによって集団的なアイデンティティの感覚を強化することは、実際珍しくありません。『不信心者』なしに、どうして『信心者』になれるでしょう。」(『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』p66)
私自身、ささやかな気づきがあった。最近で言えば、バレーボールやフィギュアスケートだが、サッカーでも野球でも、国際舞台で日本のチームや選手が勝てば、日本人として多少ともうれしいだろう。私も、うれしく感じる。
そんな自分の感情をサティしていた時だ。ある選手の試合を反芻して喜びを感じていた。「イメージ」「喜び」などとラベリングする。そして、そのイメージや想念、感情と「自我」との関係を意識する。端的に私の「自我」が喜んでいることが分かる。
「自我」が「日本選手」、あるいは「日本」そのものと同一化されていて、「日本」の活躍は、私の「自我」そのものの喜びとなっているのだ。その背景には当然、優劣の意識も働いていて、「日本選手」の勝利が、私の「自我」の優越感の喜びとなっているのだ。
「日本人」という集団的アンデンティティは、何らかの形で「自我」の強化・維持に役立っている。あるいは、自我」の根源的は不安をごまかすための強力な補助機能となっている。「日本人選手」の勝利は、「日本人」という集団的アンデンティティの優越性を刺激する。それは、そのまま「自我」の優越意識の喜びでもある。そう実感した。
「国家」や「民族」のアイデンティティの背後に、「エゴ」の問題が横たわっている。
今日のようにさえない日でも、書きはじめると、修行者の気持ちに返える。明日はもっと自覚的に生きようと、気持ちがリセットされる。
ところで最近の私の心随観の課題として思い浮かぶのは、次の三つだ。
1)過食にかかわる心理的欲求のサティ
2)怒りと恐怖にかかわるサティ
3)集合的なアイデンティティに関する優劣意識のサティ
3)に関しては、エックハルト・トールの言葉に次のようなものがあった。
「民族、国家、宗教が、敵対する相手をつくることによって集団的なアイデンティティの感覚を強化することは、実際珍しくありません。『不信心者』なしに、どうして『信心者』になれるでしょう。」(『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』p66)
私自身、ささやかな気づきがあった。最近で言えば、バレーボールやフィギュアスケートだが、サッカーでも野球でも、国際舞台で日本のチームや選手が勝てば、日本人として多少ともうれしいだろう。私も、うれしく感じる。
そんな自分の感情をサティしていた時だ。ある選手の試合を反芻して喜びを感じていた。「イメージ」「喜び」などとラベリングする。そして、そのイメージや想念、感情と「自我」との関係を意識する。端的に私の「自我」が喜んでいることが分かる。
「自我」が「日本選手」、あるいは「日本」そのものと同一化されていて、「日本」の活躍は、私の「自我」そのものの喜びとなっているのだ。その背景には当然、優劣の意識も働いていて、「日本選手」の勝利が、私の「自我」の優越感の喜びとなっているのだ。
「日本人」という集団的アンデンティティは、何らかの形で「自我」の強化・維持に役立っている。あるいは、自我」の根源的は不安をごまかすための強力な補助機能となっている。「日本人選手」の勝利は、「日本人」という集団的アンデンティティの優越性を刺激する。それは、そのまま「自我」の優越意識の喜びでもある。そう実感した。
「国家」や「民族」のアイデンティティの背後に、「エゴ」の問題が横たわっている。