瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

陽射しの中を車椅子を押して

2006年11月12日 | 瞑想日記
朝、35分の座禅。座禅を終了した後も、そのままサティが持続できるようにと、組んだ足を注意深くほどく。以前は、座禅が終わってしまえばすぐに無意識の想念の渦にまき込まれていたが、今は少しはサティが持続するようになっている。

12時過ぎ、父を教会に迎えにいく。日曜日のお決まりの仕事だ。一駅分を車椅子を押しながら歩く。今日は、よく晴れ、からっとしてすがすがしい。その中をサティしながら車椅子を押す。

秋の昼時の陽射しが織りなす光と影。車椅子の車輪の響き。踏み切りの鐘。背後の自動車の音。やや強い風が頬に当たる感触。道筋の家からもれる昼餉の匂い。足元で舞う枯葉。時折の思考、自我のかすかな欲の生起‥‥。それらが次々とサティされていく。

不思議なことだが、サティが調子よくいっているときは、歩きつつ瞬間瞬間の知覚の中心対象が受動的に適確に選択されて気づかれていくような感触がある。サティが不調のときは、一瞬迷いながら、次のサティの対象を恣意的に自分で選んでいるような感触がある。

調子のよいときは、無数の知覚情報の中で何がその瞬間に中心になっているのか、わずかな差であろうが、自我の判断以前に適確に選択されていくのであろう。これは、私にとっては意外と重要なことである。

日常生活のなかで湧き起こっては消える無数の想念の渦。以前は、そのすべてに気づいていくなど、ほとんど不可能なことのように思えた。今は、一つ一つの行為に適確にサティさえしていけば、想念そのものが少なくなるから、その多くにサティをしていくことは、必ずしも不可能なことではないと思えるようになった。

そこにかすかな喜びと自我の欲の生起があるが、これはこれでまたサティしていく必要がある。
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