瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

パソコンに向かってのサティ

2006年11月09日 | 瞑想日記
◆腹立つ「自我」に気づく

「シンプルかつ画期的な精神修養は、『いま、この瞬間』にやって来たものをすべて、丸ごと受け入れてしまうことです。」(『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』p89)

本来サティとは、こういうものだろう。「いま、この瞬間」にやって来たものを、善悪の区別をせず、好悪の感情からも自由に、事実のままに確認し、受け入れていくことなのだろう。

相手の言葉に腹を立て、不愉快になる。よくあることだ。一瞬、そう言われた事実を好悪の感情から自由に受け入れられるだろうか。今の私には、まだまだ難しいと感じられる。しかし、課題には出来るだろう。

少なくとも、腹が立つようなことを言われたとき、腹を立てている「自我」に気づくことは出来る。「自我」の何が傷つき、腹を立てているのかに気づくことも出来る。それを自覚した上で、言われた言葉をそのままに受け入れていくのだ。それを課題として意識していこう。

◆パソコンに向かってのサティ
パソコンに向かう時間は、職場でも家でもかなりある。その時間のサティをあきらめてしまうか、できるだけこまやかにサティしていくかの違いは、かなり大きい。意識すれば、思考しつつキーボードを打っているときでも、サティは可能なようだということに最近気づいた。

あくまでも「可能なようだ」ということに気づいたということであって、現実には、「思考」の一瞬と、指の動きの時間と、デスプレイを見ている時間、その辺の区別はまだまだ曖昧だ。しかし、注意して行けば、一瞬一瞬、知覚や意識の対象が変化し、それぞれの違いを明確に区別できることも多い感じがする。

もし、パソコンに向かっている時間でもクリアなサティが入っていくならば、これは修行としてきわめて大きい。重要な意味ある時間になるだろう。
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