◆『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え(Stillness Speaks)』エックハルト・トール(徳間書店、2006年)
「‥‥退屈という感覚でさえ、『自分が誰であり』、『自分が誰でないのか』を教えてくれる『道標(みちしるべ)』に利用することができるのです。」p46
「『頭にきた』、『悲しい』、『怖い』。こう感じているのは誰でしょう。
こうした感覚自体は『本当の自分』ではありません。感覚を感じとっているのが、『本当の自分』なのです。」p47
過食と欲求不満の心理を自己観察しようと思っていたが、その点に関しては何も成果なし。今日の昼に職場で復食し、一日断食はとりあえず終了。昨晩は、ひさしぶりに胃がすっきりした感覚が気持ちよかったし、ぐっすり眠れた。今朝も、快適で空腹感もほとんどなかった。
昼になってももっと続けられる状態だったのに、盛んに口元が淋しくなってきた。体の欲求以上に、口が何かを味わうことを求めている。その背後に「満たされない自己」があるのは明らかだ。しかし、それを観察するよりも「食べたい」欲求が強くて正午には復食となった。
少し食べて、胃が小さくなっているからか、もう腹には満腹感があるのに、また食べて、ということを何回か繰り返した。そこではもう「食べたい」欲求がどこからくるのか、じっくり観察する余裕はなくなっていた。
生理的欲求よりも心理的欲求で食べてしまう。その心理的欲求にサティを入れて踏みとどまろうとするにもかかわらず、充分にサティが深まらず、ずるずると食べる。そんなことを何度も繰り返してきた。
しかし、何度失敗しても、決意を新たにもう一度チャレンジしよう。生理的欲求と心理的欲求とを明確に識別し、その違いを自分につきるけるようなサティを入れよう。自分の心理的な欲求がどこから生まれてくるのか、単なる分析ではなく、はっきりと感じとれるような観察とラベリングが大切だ。
「食べたい」と感じているのは誰なのか。食べることでどんな欠乏を満たそうとしているのか。その「満たされない自己」とは誰であり、「満たされない自己」を見ているのは、誰か。
明日、断食をするかどうかは別として、また食べたいという「心理的欲求」を感じ、サティを続けたい。
「‥‥退屈という感覚でさえ、『自分が誰であり』、『自分が誰でないのか』を教えてくれる『道標(みちしるべ)』に利用することができるのです。」p46
「『頭にきた』、『悲しい』、『怖い』。こう感じているのは誰でしょう。
こうした感覚自体は『本当の自分』ではありません。感覚を感じとっているのが、『本当の自分』なのです。」p47
過食と欲求不満の心理を自己観察しようと思っていたが、その点に関しては何も成果なし。今日の昼に職場で復食し、一日断食はとりあえず終了。昨晩は、ひさしぶりに胃がすっきりした感覚が気持ちよかったし、ぐっすり眠れた。今朝も、快適で空腹感もほとんどなかった。
昼になってももっと続けられる状態だったのに、盛んに口元が淋しくなってきた。体の欲求以上に、口が何かを味わうことを求めている。その背後に「満たされない自己」があるのは明らかだ。しかし、それを観察するよりも「食べたい」欲求が強くて正午には復食となった。
少し食べて、胃が小さくなっているからか、もう腹には満腹感があるのに、また食べて、ということを何回か繰り返した。そこではもう「食べたい」欲求がどこからくるのか、じっくり観察する余裕はなくなっていた。
生理的欲求よりも心理的欲求で食べてしまう。その心理的欲求にサティを入れて踏みとどまろうとするにもかかわらず、充分にサティが深まらず、ずるずると食べる。そんなことを何度も繰り返してきた。
しかし、何度失敗しても、決意を新たにもう一度チャレンジしよう。生理的欲求と心理的欲求とを明確に識別し、その違いを自分につきるけるようなサティを入れよう。自分の心理的な欲求がどこから生まれてくるのか、単なる分析ではなく、はっきりと感じとれるような観察とラベリングが大切だ。
「食べたい」と感じているのは誰なのか。食べることでどんな欠乏を満たそうとしているのか。その「満たされない自己」とは誰であり、「満たされない自己」を見ているのは、誰か。
明日、断食をするかどうかは別として、また食べたいという「心理的欲求」を感じ、サティを続けたい。