「エゴ的な自己は、あくなき欲望に振り回されています。自分をより完全なものにしたいという欲求から、常に獲物を追い求めているのです。これが、エゴが強迫的なくらい、未来に没頭している理由です。」(『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』p62)
修行して少しでもよくなろうとする意識そのものが、すでにエゴなのである。エゴは、今の自分の不完全さ、不充分さを受け入れることができないから、未来により完全な自分を目指すのである。しかし、その限りで「今、この瞬間」を取り逃している。
「今、この瞬間」をそのままに受け入れることが出来るようにとサティしつつ、より完全なサティを目指す限りで「今、この瞬間」を取り逃している。にもかかわらず、「今、この瞬間」になりきることができるようサティを続けていくほかないのであろう。
座禅は、朝と夜、二回行ったが、それ以外の日常の営みは、さえない一日であった。それでも、想念が少なくなっている座禅中の状態を、少しでも日常の営みにつなげていきたいという意識は強い。気持ちを立て直せば、想念に遊んでしまった瞬間に気づき、また日常の行為に戻るという、想念と行為の識別は、ある程度は出来そうだという自信がある。日中、意識がたるんでしまったことを悔やむ。
それにしても、ここに書き記すことは、修行に向けて私の心身を引き締める大きな効果があると、今日もまた感じた。
修行して少しでもよくなろうとする意識そのものが、すでにエゴなのである。エゴは、今の自分の不完全さ、不充分さを受け入れることができないから、未来により完全な自分を目指すのである。しかし、その限りで「今、この瞬間」を取り逃している。
「今、この瞬間」をそのままに受け入れることが出来るようにとサティしつつ、より完全なサティを目指す限りで「今、この瞬間」を取り逃している。にもかかわらず、「今、この瞬間」になりきることができるようサティを続けていくほかないのであろう。
座禅は、朝と夜、二回行ったが、それ以外の日常の営みは、さえない一日であった。それでも、想念が少なくなっている座禅中の状態を、少しでも日常の営みにつなげていきたいという意識は強い。気持ちを立て直せば、想念に遊んでしまった瞬間に気づき、また日常の行為に戻るという、想念と行為の識別は、ある程度は出来そうだという自信がある。日中、意識がたるんでしまったことを悔やむ。
それにしても、ここに書き記すことは、修行に向けて私の心身を引き締める大きな効果があると、今日もまた感じた。