瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

自我なき行為

2005年12月21日 | 瞑想日記
◆自我なき行為
白鶴の夢で「自我に根ざさない行為」「自我なき行為」の本質を一瞬、垣間見させてもらったような気がする。そのような行為を生きる可能性のかすかな実感。それが私の日常的な意識にかなりの影響を与えている。現実の行為は自我にまみれているにしても。

しかし、「自我なき行為」を可能にするには、どうすればよいのか。結局は、今自分に与えられたなすべきことを、結果に執着せず、ひたすらに行っていく姿勢に少しでも近づくしかない。一瞬一瞬サティを忘れぬように行為しようと心に誓っていくほかない。もちろん現実には、ごく限られた時間しかサティは入らないのだが、それでもあきらめずに何度も決意していくほかない。

◆『クリシュナムルティの神秘体験』
次にどの本を読むか、いつもかすかに悩む。そしてささやかな決断をする。最近は、直接心に響いてくるようなスピリチュアルな本に強く心が向かう。とくに今回は、そういう本を読みたかった。昨日、少し迷って選んだのは『クリシュナムルティの神秘体験』だった。クリシュナムルティが、1961年の6月からの7ヶ月間、自らの知覚と意識状態との内的なプロセスを書き記した手記だ。

読み初めてこの本を選んでよかったと思った。胸に響いてくる言葉に次々と出会う。おそらく今だからこそ、そうなのだろう。たとえば、

「力は苦行、行為、情熱、美徳、支配などから引き出される。そのような力の形はすべて邪悪である。それは腐敗し、堕落する。いかなる方法であれ力を獲得し、あるいは引き出すために金銭、才能、知恵などを使用することは邪悪である。

だが、この邪悪な力とは完全に異なる力がある。‥‥‥ 何者かに成ろうとし、あるいは何者かであろうとする全てが完全に、しかも自然に止まねばならない。その時にのみあの邪悪でない力が存在できるのである。」36

「この力の行為はいかなる原因も動機も持たないために、測り知ることができず、本質のものである。」38

ここに夢をきっかけとして垣間見た「自我なき行為」の本質がある。
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ゆる体操と気功

2005年12月17日 | 瞑想日記
◆ゆる体操と気功
昨日、一日断食は夕食のおでんを食べたことでまた挫折。今日はミルクココア、ミルクティー、オレンジジュースなどを飲んで、ゆるい一日断食となった。朝の瞑想は、途中で用事が入って10分もやらなかった。夜、ゆる体操と三円式站粧法。とくにゆる体操は、途中から自発動功となり、様々な形で背骨や腰骨をゆるめたり、くねらせたりする運動になった。

最近、とても寒いが寝床に入って腰をごそごそやる「寝ゆる」をしばらくやると、体が芯から温まってリラックスし、一石二鳥だ。

読書日誌・エポケーでは、『気功生活のすすめ・禅密気功でストレスよ、さようなら』朱剛(清流出版、2004年)のレビューで、「背骨ゆらし」と禅密気功との関係に触れた。

◆長髪の高僧
MercyさんのMercy Blogに書かれている夢の話に、私の見た僧の夢は、関係しているのだろうか。分からないが、「長髪の高僧」は何を意味しているのか。
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我執に汚されない行為

2005年12月16日 | 瞑想日記
昨日、日記を書いたときの流れを確認して見る。

夢のことを書こうと思っていたが、何をどう書くかは決めていなかった。ただ、夢の中のT氏の発言に矛盾があると感じて、まずそこに触れてみた。

書いているうちに、夢の中の白鶴=僧のイメージや、飛び立つ白鶴の姿に引かれ、共鳴している自分を感じた。なぜ引かれるのだろうと探ると、「自我に根ざす動機や執着よって汚染されない行為」に共鳴している自分を発見した。それは解釈ではなかった。直感、いや、ただ白鶴=僧と「自我に汚染されない行為」とが、同一の対象であるかのように同じ共鳴の対象になっていた。だから、私の内面において、白鶴=僧が何を意味しているから明らかだった。

自我に根ざさない行為があり、自分がそのような行為の可能性に開かれていることに喜びを感じた。我執に彩られず、我を超えたところでなさる行為。我執を超えた慈悲の波動でなされる行為。たんなる言葉のレベルを超えて、そのような行為の在り様が実感された。心の奥深くのそのような実感が、白鶴のイメージとなって出てきたようだった。
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「僧」の意味

2005年12月15日 | 夢日記
昨日の夢には、矛盾したところがあると思った。私たちの講演を批判したT氏は、山で修行するだけが僧の生き方ではないと批判しながら、自らは白鶴=僧になってどこかへ飛んでいってしまう。僧になって、山にこもるだけではない生き方を示すならともかく、どこかへ飛んで行ってしまうとは。

そう思ったとき、しかし私は、自分がどこかで白鶴=僧の生き方に引かれているのを感じた。自分の中のどこかが共感、ないし共鳴していた。僧の生き方とは、何も山にこもって修行することではなく、生き方の純粋さを示していると感じた。ごまかしのない生き方。今、自分がなすべきことに、結果に執着せずに全力を尽くすこと。それが本当の意味での僧の生き方であり、自分の心のなかのある部分が、そういう生き方に深く共鳴しているのだ。

僧とは、いわゆる「出家」ではない。俗世のなかで、俗世の営みのなかで自分の修行の姿勢を貫き通すことこそが、夢の中での「僧」の意味することだったのだ。では、白鶴が飛んで行くとはどういうことか。それは、このような生き方を純粋に守り貫いていこうとする姿勢の徹底を示しているようだ。

以上は、いわゆる「解釈」ではない。最初は、少し解釈しようかという気持ちで夢を考え始めたら、自分の心の中に夢に共感、共鳴する部分がはっきりと感じられた。それがどんな部分かを探り、表現したら、以上のようになったということだ。

結局この夢は、夏の瞑想合宿以来のテーマの純化、深化なのだと思う。ということは、夏の瞑想合宿に参加する直前に見た夢の深化でもある。さらに付け加えれば、この夢以前に見た「出家」の夢も、上と同じ視点から理解できるかもしれない。

ともあれこの夢は、私にとって重要な意味をもっている。これからさらに重要な意味をもっていくような気がする。
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僧の夢

2005年12月14日 | 夢日記
◆僧の夢、白鶴
明け方、夢から目覚めた。長い夢の最後の方だけを覚えていたような気がする。学校のキャリアガイダンスの一貫としてなぜか僧の生き方を生徒たちに講演することになった。講演したのは、私ではなく若い同僚だった。

講演が終わると、別の同僚T氏(私より少し若い)が、私たちのところへ来て、「僧の生き方をあんな風に紹介してもらってはこまる。僧はあんな風に山にこもって修行しているばかりではないのだから」と批判して去る。

私は、講演した若い同僚と「テーラヴァーダ仏教の僧は山にこもって修行するばかりではないのにな、あいつは、テーラヴァーダ仏教と大乗仏教の区別もついていないらしい」と話す。

見ると、先ほど私たちを批判した同僚が、私たちの前方で白鶴や白鷺にエサを投げ与えている。それを見て私は「ああ、白鶴や白鷺は僧侶の象徴なんだな」と思う。見ていると、先ほど私たちを批判した同僚が、白鶴にエサを与えているうちに自らが白鶴になって、飛んでいってしまう。

そんな夢だった。

◆出家の夢
実は、この20日ほどの間に出家に関する夢を二つ見ている。詳細ははぶくが、ひとつは、私とかかわりをもった若い女性が、私の影響のもとに出家の道を歩んで行くという夢。もう一つは、愛し合っていた男女が、それぞれ出家して、良き法友として新たに歩んで行くという夢だった。

続けて、出家や僧に関する夢を見たので、一連の夢が何を意味しているのか、少し気になる。
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