瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

七覚支3(In This Very Lifeより)

2005年12月27日 | In This Very Lifeより
1)念覚支(続き)
◆対象に直面すること
真のマインドフルネスは、対象に直接的に対面することによってのみ生じる。腹の膨らみ縮みを観察するとき、そのプロセスを全体的に見ることから始めるだろう。まずは腹の動きに直面し、それが出来るようになると、もっと綿密に見ることが出来るようになっているのを発見するだろう。腹の膨らみ縮みのなかに、緊張や圧力や熱感や冷感や運動といった様々な感覚を感じ取るようになるだろう。

繰り返し対象に直面し続けると、やがてその努力が実を結ぶ。マインドフルネスが活性化され、しっかりと対象を観察できるようになる。対象は、視野から消えたり忘れられたりしなくなる。一定時間マインドフルネスが持続されるようになると、汚染から自由な心の純粋性を見出すようになる。

マインドフルネスが持続的に活性化されると、心身の真の性質についての洞察が生まれる。自分のなかで起こっている様々な肉体的・心理的現象の個々の性格を理解するようになる。

☆これらの具体的な記述は、きわめて参考になる。また、マインドフルネスを持続していけば、このようになっていくのだろうと、大きな励みになる。
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欲求なき行為

2005年12月25日 | 瞑想日記
◆「ありのまま」をめぐって
談話室(掲示板)では、「ありのまま」をめぐるDownさんの問いかけに自分なりに応えると、書き込みしておきながら、なかなか出来なかった。

(「分かりやすく語れるかどうか自信はありませんが、「自己」概念と関係させながら、上の意味での「あるがまま」について、ゆっくり、じっくり語っていくつもりです。」2005/11/11 の書き込みより)

ようやく始める時間的および気持ちの上での余裕が出来た。これまでのみなさんのコメントなども参考にしながら、自分なりのペースでやって行きたい。

昨日、一日断食は中止。朝、昼と食べなかったのだが、夕食を食べたくなった。空腹感はさほどないが、食べたいという欲求がかなり強くなる。今日ははじめから断食するつもりはなく、明日再度挑戦となる。食べてしまうと瞑想の条件が悪くなって、つい瞑想が億劫になる。

◆『クリシュナムルティの神秘体験』
「欲求が存在しない時にのみ愛はあり得る。自己の本質はこの欲求であり、ひとつの執着から別の執着へ、ひとつの寺院から別の寺院へ、ひとつの委託から別の委託へと、絶えず変化してゆく欲求と限りなき探求である。‥‥‥欲求から自由であることが成熟である。」119

これもまた「自我なき行為」の意味であり、イメージである。つまり、白鶴=僧侶の生き方である。「自我なき行為」とは、欲求なき行為である。仕事に、家事に打ち込むとき欲求なき行為がそこに具現するかのように、打ち込みたい。
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七覚支2(In This Very Lifeより)

2005年12月25日 | In This Very Lifeより
1)念覚支(続き)
◆表面的でないこと
マインドフルネスの特徴は表面的でないことである。コルクを流れに投げれば川面に浮いて流れるだけだが、石を投げれば即座に川底に沈むだろう。それと同様、対象の表面を通り過ぎるのではなく、対象に深く沈まなければならない。腹の例でいえば、心は腹のふくらみ、縮みのプロセスに深く沈潜しなければならない。そうすることで、緊張や圧力や動きなどの真の性質を理解できるのだ。

◆対象を視界に保つこと
マインドフルネスの働きは、対象を忘れたり、視界から消したりせずに、つねに視界に保つことである。マインドフルネスがある以上、対象は忘れられずに注意されている。

☆(コメント)
対象への注意は保っていても、対象に深く沈潜することはなかなかできない。腹の動きに注意が保たれていても、その緊張や圧力や動きに深く沈潜してその性質を感じ取るまではいかない。だからこそ、意識的にそこまで深く対象に沈潜していく努力が必要だろう。
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七覚支

2005年12月24日 | In This Very Lifeより
◆七覚支
エポケー改め「精神世界の本を読む」の方で、スマナサーラ長老の『ついに悟りを開く・七覚支瞑想法』(国書刊行会、1997年)によって、七覚支とは何かを簡単に要約している。→こちら

一方、Sayadaw U Pandiraの"In This Very Life"のなかにも七覚支について解説した一章(第4章)がある。こちらは、さらに詳しく実践的な問題に触れており、参考になる。それで、この場でその内容をあくまでも私自身の実践上の関心から要約し、感想を付け加えたりしながら、紹介していきたい。(客観的なまとめではなく個人的な関心からのノート程度のものであり、まとめについての責任は私にある。)

ちなみに七覚支(悟りのための七要素)は、次の七つである。
1)念覚支
2)択法(ちゃくほう)覚支
3)精進覚支
4)喜の覚支
5)軽安覚支
6)定の覚支
7)捨の覚支

これらは、悟りが起こるために必要な条件である。マハーシ方式の伝統的なヴィパッサナー瞑想では、これらの七要素を発展させるよう方向付けされている。

1)念覚支
念は、サティであり、マインドフルネスである。これが第一の要素である。マインドフルネスは、受動的な響きがあるが、実際のサティは、ダイナミックで立ち向かっていくものである。それは、対象に飛んで行き、いかなる部分も見逃すことなく、対象を完全にカバーし、貫くものである。

著者は、念覚支の特徴をさらにいくつかに分けて説明していく。(続く)
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見つめ、向き合うこと

2005年12月23日 | 瞑想日記
◆食事のこと
体重は、秋頃に比べると1キロほど増えて、59~60キロだが、体調はすこぶるよい。最近、朝起きたときの胃のすっきり感も増している。就寝時、寝床の中で「寝ゆる」(ゆる体操のひとつ)をたっぷりするのも効いているかもしれない。

朝食抜きはずっと続けているが、昼は野菜サラダ500グラムほどと生の玄米60グラムほど、他にプルーンやカタクチイワシなど。夕食は、玄米のおかゆとコンブのつくだにがあれば充分おいしいが、もちろん他のおかずも食べる。ただ、夕食が9時ごろになることが多いので、帰宅後にかなり間食することが多く、要注意だ。

朝食抜きと一日断食とで、心身は好調に保たれこそすれ、マイナスの影響は何もなかった。「朝食をしっかり食べないと‥‥」という「常識」が「偏見」にすぎないことを身をもって確認した。

エポケーの方では、久しぶりに甲田光雄氏の本を読んで、レビューを書いている。→『少食が世界を救う』

会議中や、ちょっとした時間に気功による呼吸をすることが多く、気の充実も感じる。

◆『クリシュナムルティの神秘体験』
この本に関しては、感じることが多いのでエポケーの方ではなくこちらで、その日にいちばんぴったり来る言葉を選んで抜書きし、思ったことを書いていきたい。

権力は、誰もが大切にし、崇拝する病いだが、つねに果てしない争い、混乱、悲しみを招く。「混乱、争い、悲しみを伴うこの力の完全な終焉によって、誰もが、一束の記憶と深まりゆく寂しさにすぎないあるがままの自己と直面する。力と成功への欲望は、この寂しさと記憶という残骸からの逃避である。それらを非難することによって回避するのではなく、あるいは、あるがままの恐怖から何らかの方法でそれらを回避するのではなく、人は乗り越えてゆくために、それらを見つめ、向き合わなければならない。」191

「自己」とは、言葉の編み物と言葉によって意味づけられた経験の「一束の記憶」に過ぎない。その「自己」がおのれを権力によって強化しようとするのは、その成立の根源に不安、弱さ、悲しみ、寂しさがあるからだろう。子供の問題に直面して、私自身がその不安に自覚的になった。大切なのは、それを徹底的に見つめ、向き合うこと。「見つめ、向き合うこと」が、まさにヴィパッサナー瞑想そのものだ。
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