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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

「忘れないこと」と「記憶すること」

2021-08-17 | 読書
 群像9月号に載っているジョン・フリーマンの五篇の詩と訳者である柴田元幸氏の解説を読んだ。
公の「場」である「公園」をテーマにした詩である。公園といってもうちの近所にあるような、休日に親子でにぎわうような長閑な公園ではない。ホームレス、難民など、輻輳する多様な視点から見、見られた公園。しかし、私たちの身近にある公園にも実は同じ問題はひそんでいるはずなのだ。
 「現実の公園ではさまざまな形で排除の力がはたらく」のである。
 公園という公共の場に親子連れも老人もホームレスも集うのだが、そこでは互いの視点が交わされることはない。

 同じく群像9月号の「[芥川賞受賞記念]石沢麻依への15の問い」を読んだ。
 「貝に続く場所にて」で第165回芥川賞を受賞した石沢麻依氏へのインタビュー記事である。作品もさることながら、すごい人が出てきたなあという印象。
 「貝に続く場所にて」は、語り手の「私」が留学するドイツ・ゲッティンゲンの街に、東日本大震災で行方不明となった友人・野宮の幽霊が訪ねてくるところから始まる寓話的設定の小説である。震災からの年月とゲッティンゲンの街の歴史や時間が交錯し、聖女の洗礼名を持つ現地で知り合った女性たちの抱える悲しみと、帰る場を失くした友人の霊が呼応しながら、記憶が多層的に塗り重ねられた絵画を紡ぎだすような世界が描かれる。「私」をワキ方として、登場人物たちの魂を鎮めようとする夢幻能の構造を持った小説として読んだ。知的で濃密な文体によって構築された傑作である。

 当のインタビューの中で、石沢氏がこの小説を書くことを後押ししてくれた作品として、内田百閒の短編「長春香」、寺田寅彦の「天災と国防」、W・G・ゼーバルトの「アウステルリッツ」などをあげている。これらの作品には、「忘れないこと」ではなく、「記憶すること」への強く静かな姿勢が表されていると氏は言うのである。
 この「忘れないこと」と「記憶すること」という二つの言葉=態度は、本作を読み解く重要なキーワードである。
 これについて、石沢氏は8月4日付の毎日新聞夕刊掲載の寄稿「芥川賞を受賞して『記憶へ向かう旅』」でも言及している。以下、引用する。
 ……「忘れない」というのは一定の枠組みに収まった過去を、すでに作られた印象を共有することである。ある意味、それは受け身としての覚え方なのかもしれない。それに対し、「記憶すること」は、ひとりひとりが、見たり読んだり聞いたり調べたりしたことを通して、独自のやり方である物事の観点を作り上げ、磨きぬいてゆくことなのだろう。その行為を通して得たものは、簡単に壊れることなく自分の中に残り続ける。(中略)受動的なものは忘れられやすいが、能動的に向き合って得たものはいつまでも消えることはない。……
 石沢氏の執筆を突き動かしたものや作品のテーマにこの「記憶する」という態度を選ぼうとする姿勢があることは言うまでもない。

 この「記憶すること」は、先の大戦の記憶をどのように繋いでいくかということとも深く連なる問題である。群像誌のインタビューの中で石沢氏が語っている。
 ……ドイツでは、第二次世界大戦の記憶をいかに繋いでゆくか、ということについて非常に積極的に議論が行われています。様々な街を訪れ、そこを案内してもらう機会があると、その記憶のモニュメントを示してくれるのです。そこから、過去に対する態度、そしてそれを現在にどう繋げてゆくか、ということを考えるようになりました。……

 翻ってわが国はどうか、ということを考えずにはいられない。今月になって、8月6日の広島平和記念式典、8月9日の長崎平和祈念式典、8月15日の全国戦没者追悼式と、複数回にわたって私たちはこの国の政権を担う立場の人の言葉を耳にしたわけだが、そこに「記憶すること」への真摯な態度は見られただろうか。そうは思えなかった、というのが大方の率直な感想だろうと思う。
 とりわけ近年顕著になっているのが、見たいものだけを見ようとし、過去に向き合って学ぶことをやめ、能動的に「記憶すること」を放擲しようとする姿勢である。そこから発せられる言葉は空疎でしかない。


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