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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

万物の理論

2015-04-22 | 映画
 映画『博士と彼女のセオリー』を観て感じたことについて、もう少しだけ書いておこう。

 ……物まねに、似せぬ位あるべし。物まねを極めて、その物にまことに成り入りぬれば、似せんと思ふ心なし。さるほどに、面白き所ばかりをたしなめば、などか花なかるべき。……
 よく知られたこの世阿弥の言葉とエディ・レッドメインの目指した役作りの間にはどのような共通点があり、どれほどの開きがあるのだろう、と考える。
 「その物に成り入る」ためのおまじないのようなものがあるわけではなく、演技の秘伝=この映画の原題になぞらえて言えば演技のための「万物の理論」、のようなものがあるわけでもない。
 物真似の対象物たるその物を徹底的に観察し、詳細に分析したうえで、その一つ一つを自身の体験として深く刻印し、生きることでしか、「その物に成り入る」ことはできない。
 演技は、そうした地味で根気のいる様々な手順の先にようやくひっそりと咲く花なのである。
 もちろんそうしたプロセスを一瞬にして超越してしまうような天才的な俳優のいることは確かだろうが、それでもそこにあるのは我を忘れた熱狂ではなく、演じ手としての自分自身を見つめる冷静で醒めた眼差しなのである。

 気になっていることがある。
 以前、メリル・ストリープがマーガレット・サッチャーを演じた映画を観たときに感じたことである。
 メリル・ストリープの演技はやはり完璧と思える出来で、その声、言葉の言い回し、イントネーション、顔つき、動作まで、映画の中の彼女はまさにサッチャーそのものと思えた。ところが、である。その演技を堪能し、家に帰ってから、映画館で買い求めたパンフレットを眺めたときに何とも言いようのない違和感を覚えたのだ。
 つい何時間か前に観たばかりの同じ映画の1シーンを撮影したはずの写真に映し出された彼女の姿は、映画の中のそれとはまるで異なっていたのだ。
 そこにいたのはマーガレット・サッチャーではなく、あくまでサッチャーそっくりの化粧をし、衣装を着て演技するメリル・ストリープの姿にほかならなかった。
 同じことが、この『博士と彼女のセオリー』にも当て嵌まる。映画の中であれほど自然にホーキング博士に成りきっていたエディ・レッドメインが、やはりパンフレットの中の静止した写真では、筋萎縮性側索硬化症を患った理論物理学者ではなく、少し痩せてはいるが若々しい筋肉を持った俳優の姿となって浮かび上がってきたのである。

 このことをどう考えればよいのだろう。細部をも写し取る写真の技術が虚構を暴くようにその真の姿を写し取ったと考えればよいのか。
 あるいは、写真では捉え切れない「演技」の力がそこにはあると考えるべきなのか。
 おそらくは後者であろう。
 「演技」は、写真にはうつらないのだ。

 映画俳優の演技はあくまで連続する動作と動作、ある一定の時間のなかで繋がる一連のアクションとアクションとの「間」、あるいはそれら相互の関係性のなかで初めて発光するものなのかも知れない。
 あらゆる俳優の演技に共通する「万物の理論」が存在しないように、それは永遠に捉え難く、それゆえに魅惑的な謎のようでもある。


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