今年は映画監督・小津安二郎の生誕110周年、没後50周年という節目の年にあたる。
1903年12月12日に生まれた小津は、ちょうど満60歳の誕生日である1963年12月12日に亡くなったのだ。12の5倍が60である、ことを思い合わせるとこの数字には何か意味があるのかと思えてならない。余計なことではあるけれど…。
いま私たちが写真などで見るその風貌からも小津監督には、巨匠、大家といった呼称がいかにも相応しいが、60歳という没年齢はあまりに早い死であったと改めて感じる。
その小津作品だが、昨年のニュースでは、英国映画協会発行の「サイト・アンド・サウンド」誌が10年ごとに発表する、世界の映画監督358人が投票で決める最も優れた映画に「東京物語」(1953年)が選ばれるなど、その評価はいまなお高い。批評家ら846人による投票でも同作品は、アルフレッド・ヒチコック監督の「めまい」(58年)、オーソン・ウェルズ監督・脚本・主演の「市民ケーン」(41年)に次ぐ3位だった。
今年5月に開催されたカンヌ映画祭では、最後の監督作品となった「秋刀魚の味」(62年)のデジタル修復版がプレミア上映されたほか、2月にはベルリン映画祭で「東京物語」が上映され、今秋のベネチア国際映画祭でも「彼岸花」(58年)が披露されるという。
そうした背景のもと、2カ月ほど前に出た雑誌「シナリオ7月号」では、小津とシナリオ作家の野田高梧が戦後後期のすべての作品をそこで書いたという蓼科高原の小津の山荘での記録である「蓼科日記」の特集とともに、「秋刀魚の味」のシナリオが収載され、さらに、文芸誌「文學界8月号」には、「蓼科日記」刊行を担った編集者の照井康夫氏が「小津安二郎外伝 ~四人の女と幻想の家」と題した評論を書いていて興味深い。
「秋刀魚の味」のシナリオを読んで改めて感じるのは、終戦から17年が過ぎた社会において、まだまだ戦争の記憶、傷痕といったものが一見平穏な日常の中に見え隠れしているということである。
笠智衆演じる平山が、たまたま立ち寄った中華料理店、そこは昔恩師だった佐久間(東野英治郎)が細々と経営している店なのだが、そこでかつての部下だった坂本(加藤大介)と再会する。彼は戦時中に平山が駆逐艦の艦長だった時の一等兵曹なのである。
二人は小さなトリス・バアに席を移し、レコードで軍艦マーチを流しながら「ねえ艦長、どうして日本負けたんですかねえ」などという会話を交わす。
二人は昔を懐かしみ、戦後の苦労を当たり障りのない会話で語るだけなのだが、当然、そこには語ることのできない様々な感情、時間といったものが胸の奥深くしまいこまれたままなのだ。
こうしたことは、現代の私たちにとって、阪神淡路大地震やオウム真理教のサリン事件が18年前の出来事ながらいまだ忘れられない事象であることと照らし合わせれば感得できるであろう。
まして、「秋刀魚の味」が作られた昭和37年は、2年後に迫った東京オリンピック開催を目前にした高揚感に包まれていたとはいえ、ほんの10年前までこの日本はアメリカに占領されていた、そんな年なのである。
そう思って小津安二郎の60年の生涯を振り返ると、彼がいかに戦争というものを身近に感じながら生きてきたか、そのことが彼の作品にどのように影響してきたのかということを考えずにはいられない。
小津が生まれた翌年に日露戦争、その10年後に第一次世界大戦が勃発、さらにその9年後、小津が20歳の時には関東大震災が起こる。その8年後に満州事変、33歳の昭和12年9月から14年7月まで1年10か月余りの期間は応召、上海派遣軍の化学兵器部隊に所属して中支の戦場で過ごす。加えて、昭和18年6月からは陸軍報道部映画班員として従軍を命じられ、シンガポールで敗戦を迎え、21年2月、42歳となった小津はようやく日本の土を踏んでいる。
こうして振り返ると、いかに彼が短期間のうちに戦争や災害と身近に接してきたか、そうした中で培われた人間洞察や批評精神がいかに現実によって鍛えられ、研ぎ澄まされたものであったかということを思わずにはいられない。
そのことは、「小津安二郎外伝 ~四人の女と幻想の家」のなかで紹介されている、火野葦平の「麦と兵隊」「土と兵隊」を読んでの「読書ノート」における強烈な批判からも感じることができる。
さて、「小津安二郎外伝」でもう一つ忘れられないのは、映画監督・山中貞雄との別れのくだりだ。
昭和13年1月12日、小津は戦地で山中と会っている。後に山中の死を知った小津が、「キネマ旬報」14年1月1日号に書いた「手紙」という一文が美しい。
小津は、昭和13年12月20日、「中央公論」に掲載された山中貞雄の遺書を読み、その日の日記にこう書いている。
「山中貞雄の遺書を読む。撮影に関するnoteがある。その中に現代劇に対しての烈々たる野心が汲みとれて、甚だ心搏たれる。詮ないことだがあきらめ切れぬ程に惜しい男を失した。」
山中貞雄は、昭和13年9月17日未明、収容された野戦病院で戦病死した。満28歳と10カ月の生涯であった。
あの戦争によって、どれほどの才能が無残に散って行ったか、失われたか。言葉にできない思いが残る。
英国映画協会の「サイト・アンド・サウンド」誌は、小津監督が「東京物語」において、「その技術を完璧の域に高め、家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な映画をつくり上げた」と評価した。
小津はその生涯における様々な喪失と無念の思いを映画表現の様式の中に昇華しようとしたのである、とこれはまあ勝手な想像だが、そう思えてならない。
1903年12月12日に生まれた小津は、ちょうど満60歳の誕生日である1963年12月12日に亡くなったのだ。12の5倍が60である、ことを思い合わせるとこの数字には何か意味があるのかと思えてならない。余計なことではあるけれど…。
いま私たちが写真などで見るその風貌からも小津監督には、巨匠、大家といった呼称がいかにも相応しいが、60歳という没年齢はあまりに早い死であったと改めて感じる。
その小津作品だが、昨年のニュースでは、英国映画協会発行の「サイト・アンド・サウンド」誌が10年ごとに発表する、世界の映画監督358人が投票で決める最も優れた映画に「東京物語」(1953年)が選ばれるなど、その評価はいまなお高い。批評家ら846人による投票でも同作品は、アルフレッド・ヒチコック監督の「めまい」(58年)、オーソン・ウェルズ監督・脚本・主演の「市民ケーン」(41年)に次ぐ3位だった。
今年5月に開催されたカンヌ映画祭では、最後の監督作品となった「秋刀魚の味」(62年)のデジタル修復版がプレミア上映されたほか、2月にはベルリン映画祭で「東京物語」が上映され、今秋のベネチア国際映画祭でも「彼岸花」(58年)が披露されるという。
そうした背景のもと、2カ月ほど前に出た雑誌「シナリオ7月号」では、小津とシナリオ作家の野田高梧が戦後後期のすべての作品をそこで書いたという蓼科高原の小津の山荘での記録である「蓼科日記」の特集とともに、「秋刀魚の味」のシナリオが収載され、さらに、文芸誌「文學界8月号」には、「蓼科日記」刊行を担った編集者の照井康夫氏が「小津安二郎外伝 ~四人の女と幻想の家」と題した評論を書いていて興味深い。
「秋刀魚の味」のシナリオを読んで改めて感じるのは、終戦から17年が過ぎた社会において、まだまだ戦争の記憶、傷痕といったものが一見平穏な日常の中に見え隠れしているということである。
笠智衆演じる平山が、たまたま立ち寄った中華料理店、そこは昔恩師だった佐久間(東野英治郎)が細々と経営している店なのだが、そこでかつての部下だった坂本(加藤大介)と再会する。彼は戦時中に平山が駆逐艦の艦長だった時の一等兵曹なのである。
二人は小さなトリス・バアに席を移し、レコードで軍艦マーチを流しながら「ねえ艦長、どうして日本負けたんですかねえ」などという会話を交わす。
二人は昔を懐かしみ、戦後の苦労を当たり障りのない会話で語るだけなのだが、当然、そこには語ることのできない様々な感情、時間といったものが胸の奥深くしまいこまれたままなのだ。
こうしたことは、現代の私たちにとって、阪神淡路大地震やオウム真理教のサリン事件が18年前の出来事ながらいまだ忘れられない事象であることと照らし合わせれば感得できるであろう。
まして、「秋刀魚の味」が作られた昭和37年は、2年後に迫った東京オリンピック開催を目前にした高揚感に包まれていたとはいえ、ほんの10年前までこの日本はアメリカに占領されていた、そんな年なのである。
そう思って小津安二郎の60年の生涯を振り返ると、彼がいかに戦争というものを身近に感じながら生きてきたか、そのことが彼の作品にどのように影響してきたのかということを考えずにはいられない。
小津が生まれた翌年に日露戦争、その10年後に第一次世界大戦が勃発、さらにその9年後、小津が20歳の時には関東大震災が起こる。その8年後に満州事変、33歳の昭和12年9月から14年7月まで1年10か月余りの期間は応召、上海派遣軍の化学兵器部隊に所属して中支の戦場で過ごす。加えて、昭和18年6月からは陸軍報道部映画班員として従軍を命じられ、シンガポールで敗戦を迎え、21年2月、42歳となった小津はようやく日本の土を踏んでいる。
こうして振り返ると、いかに彼が短期間のうちに戦争や災害と身近に接してきたか、そうした中で培われた人間洞察や批評精神がいかに現実によって鍛えられ、研ぎ澄まされたものであったかということを思わずにはいられない。
そのことは、「小津安二郎外伝 ~四人の女と幻想の家」のなかで紹介されている、火野葦平の「麦と兵隊」「土と兵隊」を読んでの「読書ノート」における強烈な批判からも感じることができる。
さて、「小津安二郎外伝」でもう一つ忘れられないのは、映画監督・山中貞雄との別れのくだりだ。
昭和13年1月12日、小津は戦地で山中と会っている。後に山中の死を知った小津が、「キネマ旬報」14年1月1日号に書いた「手紙」という一文が美しい。
小津は、昭和13年12月20日、「中央公論」に掲載された山中貞雄の遺書を読み、その日の日記にこう書いている。
「山中貞雄の遺書を読む。撮影に関するnoteがある。その中に現代劇に対しての烈々たる野心が汲みとれて、甚だ心搏たれる。詮ないことだがあきらめ切れぬ程に惜しい男を失した。」
山中貞雄は、昭和13年9月17日未明、収容された野戦病院で戦病死した。満28歳と10カ月の生涯であった。
あの戦争によって、どれほどの才能が無残に散って行ったか、失われたか。言葉にできない思いが残る。
英国映画協会の「サイト・アンド・サウンド」誌は、小津監督が「東京物語」において、「その技術を完璧の域に高め、家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な映画をつくり上げた」と評価した。
小津はその生涯における様々な喪失と無念の思いを映画表現の様式の中に昇華しようとしたのである、とこれはまあ勝手な想像だが、そう思えてならない。
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