17日(土)、ポツドールの「夢の城 – Castle of Dreams」を観た。作・演出:三浦大輔、場所:東京芸術劇場シアターウエスト、主催:フェスティバル/トーキョー。
本作は、三浦大輔氏が「愛の渦」(2005年)で岸田國士戯曲賞を受賞した直後に発表されて以降、海外での再演が続き、今回は6年ぶりの再演にしておそらく国内では最終公演になるだろうとのこと。
とあるアパートの一室で暮らす男女8人の若者が、酒とケンカ、怠惰で無気力な眠りと果てしのない交合、テレビゲームに明け暮れる獣のような生活のほぼ24時間が台詞の一切ない無言劇として描かれる。
それを観客は部屋の窓から覗き見する者のようにして観るのだが、その希望も絶望も人間らしい感情すらも失われた荒涼とした光景には胸を衝く力がある。
それは野生の猿たちが集団生活しながらも、我先に力づくで食べものや水を奪い、欲望を吐き出すのと変わらない。
この若者たちの生態は一体何の暗喩であり、この作品は何を表現しようとしているのか、という陳腐な問いかけが当然観客の心にナイーブに投げかけられるだろう。
そうやって観るうちに、次第に彼らが現代日本の、それも東京とおぼしき大都会の片隅で懶惰に生きる若者たちなどではなく、神話が生まれる以前の、太古の、言葉をまだ持たない時代のわれらが先祖の姿とも思えてくる。スタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」の冒頭シーンに出てくる類人猿たちの姿とも二重写しになって、むしろそれらは神々しさをすら感じさせる。
それにしてもそもそも「人間らしさ」とは一体何だろうか。人間が人間であるとは、いかなる条件付けのもとに定義づけられることなのか。
この舞台で描かれるのが、無気力で人間らしさを失い、欲望のままに生きる獣めいた若者たちであるなどと誰が断定できるのか。
それでは、「レヒニッツ」において友愛パーティのさなかにその余興として200人ものユダヤ人強制労働従事者を容赦なく殺害した裕福なナチ党員たちは「人間」らしいのか。
「たった一人の中庭」において、移民キャンプの存在を隠微しようとする者たち、情報を操り、見えるものを見えないものにしようとする者たち、あのダンスに興じる白いモンスターたち、あらゆる戦争とテロ、差別や貧困に加担するものたちは「人間」といえるのか。
このように振り返ると、今回のF/Tで上演されるいくつかの演目がそれぞれ個別の意味を持ちながらもひとつながりに見えてくるのが分かる。プログラム・ディレクターによるキュレーションの成果であると感じる。
「夢の城」は、若者たちの生態を時に極度に拡大し、増幅し、引き伸ばし、反復しながら、優れた演劇のみが持ち得るリズムを舞台上に醸し出す。それは痴態に充ちた乱交シーンや諍いの場面、テレビゲームの同じ画面が幾度も執拗に繰り返される場面にもあらわれ、何とも言えないコミカルな味わいを感じさせる。卓抜に計算されつくした演出の力である。
ヨーロッパ公演ではこれをダンスと見做した批評もあったそうだが、たしかに退廃と倦怠を描きながら躍動する肉体を観る者は感じるだろう。
ラスト近く、一人の女がキッチンに向かい、野菜を刻む音が違和感をもたらす。何かの変化の兆しを観客は感じずにはいられない。
そして最後、女の小さく長い泣き声、嗚咽の音が舞台に満ちるのだ。それは、この時代そのもの、世界そのものの泣き声なのか。
その声を振り切るように、二人の男が素裸になり、スピードスケートの選手を模したポーズでゆっくりと部屋の中を周回する。
その時、午前も3時を過ぎ、テレビではNHKの放映終了の合図である、あのよく見慣れた日の丸国旗のはためく画面と君が代がおごそかに流れるのだ。その国歌は若者たちの全身を包み込んでいく……。
これを切れ味のよい演出と見るか、いささかあざとさが目立つ演出と感じるかは人それぞれだろうが、この瞬間、舞台は私たちの生きる現代の世界=日本を丸ごと描き出す批評性を獲得したのだ、と思える。
「2001年宇宙の旅」の冒頭シーンのタイトルは「人類の夜明け」だったが、「夢の城」のラストシーンに流れる君が代は滅びゆく人類への挽歌、黄昏の歌なのだろうか。
この対比はぞくぞくするほど面白い。
本作は、三浦大輔氏が「愛の渦」(2005年)で岸田國士戯曲賞を受賞した直後に発表されて以降、海外での再演が続き、今回は6年ぶりの再演にしておそらく国内では最終公演になるだろうとのこと。
とあるアパートの一室で暮らす男女8人の若者が、酒とケンカ、怠惰で無気力な眠りと果てしのない交合、テレビゲームに明け暮れる獣のような生活のほぼ24時間が台詞の一切ない無言劇として描かれる。
それを観客は部屋の窓から覗き見する者のようにして観るのだが、その希望も絶望も人間らしい感情すらも失われた荒涼とした光景には胸を衝く力がある。
それは野生の猿たちが集団生活しながらも、我先に力づくで食べものや水を奪い、欲望を吐き出すのと変わらない。
この若者たちの生態は一体何の暗喩であり、この作品は何を表現しようとしているのか、という陳腐な問いかけが当然観客の心にナイーブに投げかけられるだろう。
そうやって観るうちに、次第に彼らが現代日本の、それも東京とおぼしき大都会の片隅で懶惰に生きる若者たちなどではなく、神話が生まれる以前の、太古の、言葉をまだ持たない時代のわれらが先祖の姿とも思えてくる。スタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」の冒頭シーンに出てくる類人猿たちの姿とも二重写しになって、むしろそれらは神々しさをすら感じさせる。
それにしてもそもそも「人間らしさ」とは一体何だろうか。人間が人間であるとは、いかなる条件付けのもとに定義づけられることなのか。
この舞台で描かれるのが、無気力で人間らしさを失い、欲望のままに生きる獣めいた若者たちであるなどと誰が断定できるのか。
それでは、「レヒニッツ」において友愛パーティのさなかにその余興として200人ものユダヤ人強制労働従事者を容赦なく殺害した裕福なナチ党員たちは「人間」らしいのか。
「たった一人の中庭」において、移民キャンプの存在を隠微しようとする者たち、情報を操り、見えるものを見えないものにしようとする者たち、あのダンスに興じる白いモンスターたち、あらゆる戦争とテロ、差別や貧困に加担するものたちは「人間」といえるのか。
このように振り返ると、今回のF/Tで上演されるいくつかの演目がそれぞれ個別の意味を持ちながらもひとつながりに見えてくるのが分かる。プログラム・ディレクターによるキュレーションの成果であると感じる。
「夢の城」は、若者たちの生態を時に極度に拡大し、増幅し、引き伸ばし、反復しながら、優れた演劇のみが持ち得るリズムを舞台上に醸し出す。それは痴態に充ちた乱交シーンや諍いの場面、テレビゲームの同じ画面が幾度も執拗に繰り返される場面にもあらわれ、何とも言えないコミカルな味わいを感じさせる。卓抜に計算されつくした演出の力である。
ヨーロッパ公演ではこれをダンスと見做した批評もあったそうだが、たしかに退廃と倦怠を描きながら躍動する肉体を観る者は感じるだろう。
ラスト近く、一人の女がキッチンに向かい、野菜を刻む音が違和感をもたらす。何かの変化の兆しを観客は感じずにはいられない。
そして最後、女の小さく長い泣き声、嗚咽の音が舞台に満ちるのだ。それは、この時代そのもの、世界そのものの泣き声なのか。
その声を振り切るように、二人の男が素裸になり、スピードスケートの選手を模したポーズでゆっくりと部屋の中を周回する。
その時、午前も3時を過ぎ、テレビではNHKの放映終了の合図である、あのよく見慣れた日の丸国旗のはためく画面と君が代がおごそかに流れるのだ。その国歌は若者たちの全身を包み込んでいく……。
これを切れ味のよい演出と見るか、いささかあざとさが目立つ演出と感じるかは人それぞれだろうが、この瞬間、舞台は私たちの生きる現代の世界=日本を丸ごと描き出す批評性を獲得したのだ、と思える。
「2001年宇宙の旅」の冒頭シーンのタイトルは「人類の夜明け」だったが、「夢の城」のラストシーンに流れる君が代は滅びゆく人類への挽歌、黄昏の歌なのだろうか。
この対比はぞくぞくするほど面白い。
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