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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

私のニナガワ

2016-06-19 | 演劇
 演出家の蜷川幸雄氏が亡くなってひと月以上が過ぎた。すでに多くの新聞、テレビ、雑誌等で様々な人が追悼文やまとまった所感を寄せているが、有名無名に関わらず、彼の舞台を観た数多の人々それぞれの胸にその記憶は深く刻まれている。

 私自身は、蜷川劇団と称されるそのカンパニーとは縁もゆかりもない三流役者に過ぎないし、ニナガワ演劇の良い観客でもなかったが、それでも折々に劇場に足を運んで観たその舞台は鮮烈な記憶として心の奥底に残っている。作品のみならず、彼の存在そのものを含め、私の人生に大きな影響を与えてくれたといって過言ではない。
 蜷川幸雄といえば、例の灰皿投げに象徴されるような過激な演出ぶりがイメージされ、常に何かに怒りながら挑みかかっているような印象があるが、実際の蜷川氏は実ははにかみ屋で人によく気を使う繊細さを兼ね備えた人柄だったのではないかと思う。

 私が直に話を聞く機会を持ったのは2006年秋頃のことで、オープン間もない「にしすがも創造舎」の体育館で氏の演出する「ロミオとジュリエット」の舞台稽古が行われていた時のことだ。
 普通なら広報することはもとより、一般公開などとんでもない筈の稽古場の様子をオープンにすることを蜷川氏は許してくれた。
 そのことは、廃校施設をアートセンターに転用するというプロジェクトを始めたばかりの「にしすがも創造舎」の活動を広く知らしめ、大きく後押ししてくれるものとなった。
 そのお礼も兼ねて表敬訪問した豊島区長に随行する形で陪席したのだったが、私たちが到着した時、蜷川さんは若いスタッフたちと一緒に、その数日前から降り続いた雨で水溜まりとなった校庭に砂利石を埋めるという作業に嬉々としながら勤しんでいた。
 その時、どういう話の成り行きだったか、豊島区が開催している文化フォーラムで建築家の安藤忠雄氏に講演してもらったという話題になった。それに蜷川さんはすぐさま反応し、
「私も安藤さんと同じように学歴がないなかで戦ってきたので、アカデミズムに抗して頑張っている彼にはとてもシンパシーを感じているんですよ。(豊島区の文化のために)私にできることは何でもやりますよ」と言ったのだった。
 その直截な物言いは率直で、とても好感の持てるものだった。

 その後、蜷川氏は井上ひさし作の「天保十二年のシェイクスピア」の稽古の際にも地域住民のための一般公開に応じてくれた。
 稽古という、作品の生成過程では、俳優も演出家も普段は見せられない姿を晒すことになる。そのためにはそれぞれの俳優さんのプロダクションに了解を得なければならず、その根回しには相当な労力を割かなければならない。そうした手間をかけてまで一般公開に応じてくれたのは、地域に愛されてきた中学校を廃校となったのちにアートの拠点として転用した「にしすがも創造舎」という場所の大切さを誰よりも理解してくれていたからに相違ない。
 「にしすがも創造舎」では蜷川作品の公演も様々行われたが、最後となったのは、2014年にフェスティバル/トーキョーの一環として上演された「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」だった。さいたまゴールド・シアターの平均年齢70歳を超えた俳優たちを中心とした舞台は、1971年に初演された作品の再演だったが、40年という時の経過をドキュメントとして反映した秀逸なもので、上演されるとともに消えるしかない演劇作品における「再演」というもののあり方の一つを提示して感銘深いものだった。

 私にとって蜷川幸雄という存在は何だったのか、ということは考えても詮無いことだが、あくまで私はすれ違うだけの一観客であり、その活動を遠くから仰ぎ見る立場でしかなかったが、戦いに挑み続けるその姿勢は常に私を鼓舞し続けてくれたのだ。

 私の初めてのニナガワ体験は、1973年に続けて観たアートシアター新宿文化での唐十郎作「盲導犬」と、清水邦夫作「泣かないのか?泣かないのか1973年のために?」だった。
 当時の蜷川氏の活動拠点だった櫻社は前年に結成され、翌74年には、氏が商業演劇に進出したことを契機として解散となるから、その中間年にあたるその年に観た二作品に私は良くも悪くも決定的な影響を受けた。
 それは幸せなことだった。もっとも、それ故にこそ私は三流役者にとどまったとも言えるのだけれど。そのあたりの事情は書けば長くなるが、改めて書くほど意味のあることではないだろう。

 1980年12月、私は当時千石にあった三百人劇場にニキータ・ミハルコフ監督の映画「機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲」を観に行った。
 その頃、私は生活上の都合で役者であることを断念し、無聊のままに時を過ごす日々だったのだが、その日観た映画に私は静かな感動を覚えていた。
 その帰り、地下鉄のホームで私は蜷川氏と一緒になった。当時の氏は商業演劇に転じて数年が経ち、その年には代表作となる「NINAGAWAマクベス」「元禄港歌」を上演し、成功を収めていた。
 ああ、蜷川さんも映画を観に来たのだ、と思ったものだが、辺りに人の気配はなく一瞬二人きりの時間が流れた。声を掛けようかどうしようかと逡巡したその時、一人の若者が氏に挨拶をした。知り合いの俳優だったらしく、しばらく親しそうに歓談してから蜷川さんは電車に乗り込んでいった。
 ただ、それだけのことでしかないのだが、今でも時折思い出すことのある瞬間の光景だ。

 その数年後、蜷川さんは演劇の実験工房である「ニナガワ・スタジオ」を立ち上げ、再び若者たちと芝居づくりを始めたのだが、ちょうど同じその頃、私もまた、小さな陽のあたらない場所でささやかな芝居をつくろうと思い始めていたのだった。


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