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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ベースボールの歌

2009-06-26 | 言葉
 5月末に大阪市で行われたある講演会のなかでサントリーラグビー部清宮克幸監督が「ラグビーはリーダーシップのスポーツ、男を自立させるスポーツと言われる。少年の頃からベンチを見て監督の指示を待つ野球と比べて、社会に出てビジネスで成功する人が多いと指摘される」と述べていることが報道されている。
 これには野球関係者から一言あるのではないかと面白く読んだ。

 今から140年も前、明治4年(1871年)に紹介されたベースボールだが、その40年後にはもう野球人気は一般に広く浸透していたようだ。
 『東京風景』は明治44年(1911年)刊だが、同年刊の 『慶応義塾之現状』中の「野球部」の項には、「綱町グラウンドに於て野球競技行はるるときは、来観者毎時殆ど萬を以て数るを見ても、義塾野球部の如何に盛大なるかを察す可し。」 と書かれていてその人気ぶりを示している。

 一方、日本のラグビーの歴史は、明治32年(1899年)に上記の慶応義塾大学から始まったとされる。

 ラグビーと野球の因縁は深い。
 野球人気の加熱ぶりに対抗して、『東京朝日新聞』は明治44年8月29日から9月19日にかけて「野球と其害毒」というアンチ野球キャンペーンを掲載した。 第1回は第一高等学校校長・新渡戸稲造の談話である。
 「野球と云ふ遊戯は悪く云へば巾着切の遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、塁を盗まうなどと眼を四方八面に配り神経を鋭くしてやる遊びである。故に米人には適するが英人や独逸人には決して出来ない。彼の英国の国技たる蹴球の様に鼻が曲っても顎骨が歪むでも球に齧付いて居る様な勇剛な遊びは米人には出来ぬ。」(東京朝日新聞8月29日付)

 野球に対する敵愾心が「大人気なく」というか「微笑ましく」も露骨に表されていてとても面白い。それだけ野球の人気がすさまじかったということなのだろう。
 「武士道」を書いた新渡戸稲造にとっては、「ノブレス・オブリージュ(高貴な者の義務)」を旗印にしたラグビーの方が似つかわしかったのに違いない。

 野球という訳語は正岡子規の後輩で中馬庚という人が明治26年頃に、野外の遊戯ということで、庭球に対して野球と命名したといわれる。
 子規のベースボール好きは有名だが、野球という訳語が浸透するずっと以前、彼は自身の幼名である升(ノボル)をもじって、「野球:ノ・ボール」という雅号を使っていたそうである。
 このほか正岡子規は、打者、走者、直球、死球などの言葉を訳し、これらは今も私たちの日常語として使われている。

 子規の竹之里歌には、次のような歌がある。

 「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」
 「若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如く者はあらじ」
 「九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり」
 「今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸のうちさわぐかな」
 「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす」

 遊びの原型としての楽しさ、いとおしさがこれらの歌には込められていると感じ入るけれど、これを作った明治31年頃、すでに子規は病のために歩行の自由を失っていたのだ。

 司馬遼太郎「坂の上の雲」には、ベースボールに親しむ子規の姿が印象深く描かれている。子規にとって、野球は俳句同様に人と心を通わせるための大切なコミュニケーションツールだったのである。
 野球は日本人の精神形成や生活に深く根付いているのだとつくづく感じる。

 さて、近代日本の幕開けから敗戦、高度成長期、バブル崩壊、そして現下の経済危機、その時代の要請に伴ってビジネスモデルも様々に変化している。
 チームワークが何よりも優先された時代、猪突猛進の強いリーダーシップが求められる時代、その時々に応じてスポーツの人気も変転してきたのだが、今、この時代にもっともふさわしいスポーツ=ビジネス形態は果たしてなんだろうか。

 子どもの頃、私たちは野球という遊びを規則にしばられることなく、三角ベース、キャッチボール等、自在に工夫しながら楽しんだものだ。
 あの頃がとてつもなく懐かしい。


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