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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ヴィヨンの妻

2009-10-20 | 映画
 すでに1週間ほども前のことになるけれど、今月12日、映画「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ」を観たので記録しておきたい。
 ご存知、太宰治の原作をもとに根岸吉太郎が監督し、第33回モントリオール世界映画祭最優秀監督賞を受賞した作品である。
 同名の短編小説のほか、いくつかの作品からの引用をもとに田中陽造が脚本を書いている。
 松たか子が主人公の妻役を凛とした美しさで映画全体を包み込むような大きな存在感を示し、その夫で放蕩三昧の小説家大谷(浅野忠信)と心中沙汰を起こすバーの女給・秋子を演じた広末涼子も新たな境地を見せる。
 飲み屋の夫婦を演じた伊武雅刀と室井滋も実によい味わいを出していた。
 総じて、男優陣の存在感の希薄さに比べ、女優たちの印象が際立つと思えるのだが、その濃淡のタッチは根岸監督の周到な計算によるものだろう。
 松の演じる佐知は、どこまでも明るく健気に、男の手前勝手な甘えやだらしなさを受け入れつつもひたすら尽くしぬくように見せながら、最後にはその男どもを食いつくし、したたかに肥え太る女王蟻のようにも見える。

 さて、太宰治と最も近しい立場にいた編集者・野原一夫氏の著書「回想 太宰治」によれば、太宰と最期をともにした山崎富栄さんは「ヴィヨンの妻」の奥さんのことを「倖せだと思うわ」と言っていたそうだ。
 「だって、あの奥さん、大谷をあたたかく包みこんで、甘えさして」
 「それじゃあ、倖せなのは大谷のほうだ」
 「あら、大谷を倖せにできたら、その奥さんも倖せなんじゃないの」
 「あなた、えらいんですね。しかしあんな女房、どこにもいやしないさ」
 「どこかにいます。きっと、どこかにいるわ」

 それはこの自分なのだと富栄さんは言いたかったのだろうか。

 ところで、「ヴィヨンの妻」の第一章を太宰は口述筆記したようだ。彼の書く文章の語り口の絶妙さは誰もが認めるところだが、生来の天才であるとはしても、多くの人々を魅了し惑わせたその才能はどのようにして養われたものなのだろうか。
 ちょうど、ある作家の作品集への解説文を太宰が口述筆記させているところに居合わせた野原氏は次のように書いている。

 「三十分か、四十分か、その時間は記憶していない。なんの渋滞もなく、一定のリズムをたもちながら、その言葉は流れ出ていた。私は目をつぶってその言葉を追っていた。はじめ私は、不思議な恍惚感に捉われていた。それは、美しい音楽を聴いている時の恍惚感に似ていた。やがて、胸をしめつけられるような感じに襲われ、そして、戦慄が私のなかを走った」

 このほかにも多くの作品を太宰は口述しながら奥さんに筆記させたそうだ。

 「『駆込み訴え』のときは、炬燵に当って杯をふくみながらの口述であったが、淀みも、言い直しもなく、言ったとおりを筆記してそのまま文章であった。
 『書きながら、私は畏れを感じた。』と奥さんは書いておられる。」

 あれほど勝手に生きた太宰を奥さんは愛していたのだろうか。分からないが、才能に惚れていたという月並みな見方もできるようだ。
 あるいは、「文化」と書いて「ハニカミ」とルビを振らざるを得ないような含羞のポーズに憎めなさを感じていたのかも知れない。
 いつもいつも飲んだくれてばかりいたような印象のある太宰治だが、彼は仕事用に別に一部屋を借りて、そこに弁当を持って通勤していたと「回想 太宰治」には書かれている。
 「太宰さんはそこに朝の九時すぎに出勤し、午後の三時頃まで仕事をした。まじめな勤め人の几帳面さである。書けても書けなくても、朝、机に向かうのだと言っていた。」
 「明るい昼間、醒めた意識で書く、その心構えをくずさなかった。興が乗ってきて筆がすべりすぎると、そこでストップをかけるのだ、とも言っていた。ものを書くということを、よほど大事にしていたのだと思う。」

 太宰の比類のない才能は、ある面、ストイックなまでの努力と原稿に向かう膨大な時間の積み重ねによって培われたものなのだろう。

 さて、再び映画であるが、原作と同様の時代背景を設定しながら、原作と異なる印象はやはり現代向けの味付けによるものなのだろうか。
 小説において大谷の存在はもっと巨大で、食うや食わずの時代を生き抜くずぶとさやこすっからさ、犯罪の匂いを纏っているようだ。
 また、飲み屋に集まる客にしても誰もが闇市に跋扈するような犯罪者であるに違いなく、映画でのようなのどかな明るさからは程遠い。
 妻夫木聡の演じた工員にしても、あんなふうに純情一途な青年などではない。それは原作で確認していただきたいが、私が連想するのは、太宰が大きな標的とした志賀直哉の短編「灰色の月」に出てくる工員ふうの青年である。
 終戦直後のやさぐれた野良犬のような目つきで、餓死寸前の欲望にぎらぎらしながら、その反面何もかもを放擲したような捨て鉢な気分の時代。
 そうした背景のなかでこそ「ヴィヨンの妻」は一層輝くように思える。


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