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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

浮世と歌謡/演劇の夢

2011-03-12 | 演劇
 3月10日、Space早稲田にて流山児★事務所レパートリーシアター2011「夢謡話浮世根問」を観た。作:北村想、演出:小林七緒。
 流山児祥と北村想の二人芝居である。去年の5月から演出家と二人の俳優の三人で台本作りを始め、長い時間をかけて創り上げた舞台とのことだが、その3分の2だけが台本に書かれ、3分の1は即興芝居というスリリングなものだ。
 二人の絶妙の間合いや演戯=文字どおりの戯れもあって、どこまでが台本どおりの芝居でどこからが即興なのか分からない面白い仕上がりだった。
 もっともこの面白さは、二人の役者をよく知っている、あるいはファンである観客にとっての面白さであって、まったく予備情報なしにこれを観た人が同様の面白さを感じてくれたかどうかは正直なところ、ワカラナイ。

 それにしても、今回、北村想という役者の“味”というのか、うまさを認識したのは収穫だった。劇作家あるいは演出家としての彼のことはもちろん知っていたのだったが、役者としての北村想を観るのは実は今回が初めてだったのだ。
 流山児祥の猛烈な突っ込みやボケを絶妙の間合いで受け、はぐらかしたかと思えばそれ以上のボケぶりで煙に巻く、かと思えば今度は意外なほどの歌唱力で渋いこぶしを利かせた歌声を聞かせるのだ。
 人前で演技するなんて恥ずかしくてカナワンヨとでも言いたげな困ったような表情がなんともカワユク魅力的だった。

 さて、その北村想がパンフレットに「観客論」とでもいうべき文章を書いている。
 それを叱られることを恐れず思い切り簡略にまとめてしまえば次のようなことになるだろう。

 「……我々は小劇場演劇を製作するのにギリギリ予算を切り詰め、ノーギャラで、場合によっては持ち出しまでして創るがわにいる。仮に300万円で1本創ったとすれば、赤字を避けるためには3000円の有料チケットで1000人を動員しなければならない。
 ここでわれわれは観客をどうしても「消費者」として扱わなければならない下部構造に出くわすことになる。
 つまり、消費者たる一人の観客は3000円を支払って300万円のホンモノの表現と対応していることになる。
 だが、おそらく私たちは表現者として、必ずしも観客を「消費者」というカテゴリーで対象化しているわけではないのだ。
 では、私たちは、観客のナニと等価に自分たちの表現を営為すればよいのか……。」

 これは、商業的に成り立たない、すなわち生産効率の極めて悪い小劇場演劇なるものにかかずらわっているワレワレ自身に突き付けた問いなのである。
 そのことを私も考えなければならない。
 単なる製造者と消費者の関係性に収斂され尽くさない何か、「表現者」と「観客」の間でだけ成立するような黙契=価値とでもいうべきものがそこには秘められているはずなのだ。
 それをこそ私たちは希求したいと願う。



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