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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ザ・キャラクター

2010-07-04 | 演劇
 3日、池袋西口公園でのイベントに参加したついでに東京芸術劇場中ホールに立ち寄り、運良くキャンセル待ちのチケットが取れたので野田地図(NODA・MAP)の第15回公演「ザ・キャラクター」(作・演出:野田秀樹)を観た。
 思えばかつての私は野田作品、とりわけ「夢の遊眠社」時代の作品に関してはまったくよい観客ではなかった。その理由はいわく言い難いものだが、時代観の相違だったり、言葉遊びへの違和感だったり、不必要にテンポの速いと思われる動きや台詞回しへの愛憎交じり合った反発となって積極的に劇場に足を向けることをしなかったのだ。
 それがこの何年かの仕事振りには、こちらが歳を取って感覚が変わったのか、あちらが歳を取ってテンポがこちらに合ってきたのかは分からないけれど、妙に共感を覚えるようになってきた。
 とりわけ、もう10年以上も前になるけれど、私がある人の批評に傷ついて悩んでいた時期に観た「パンドラの鐘」には大いに勇気づけられた。励まされたといってもよい。それもまたいわく言い難いことなのではあるけれど、そこには自分自身と通低する演技観や世界観があった。それもまた不思議な事だ。

 さて、「ザ・キャラクター」は、例の言葉遊び、人偏のあるさまざまな漢字、「俤」や「儚」といった文字をキーワードにしながら、町の書道教室がオウム真理教や地下鉄サリン事件を思わせるテロと殺戮の舞台へと転換する不気味な世界を描いた作品だ。
 「神」が薄っぺらな「紙」へと誤変換され、ギリシャの紙幣がくしゃくしゃの安っぽい半紙に変容するような価値観の転換が描かれる。それとともに他愛のない幼児性と思われたものが排他的で不寛容な恐怖と支配による暴力性を帯びてゆく。
 これが今回、野田秀樹の提示した日本人論であり世界観であるのは間違いないが、この世界を経ることで彼は何を目指すのか。

 ラスト、宮沢りえ演じるマドロミの声が舞台に悲しい余韻を残す。

マドロミ 「こんなコトバを聞きながら、おまえたちは、筆一本で空を突き刺したつもりだったの?・・・・・・死んだ者たちの祈りは、届かなかった。けれども、こうして生きている者たちの祈りは、なおさら届かない。」
アルゴス 「だったら、生きとし生ける者たちは、忘れるために祈るのか?」
オバちゃん・ダプネー 「それとも忘れないために祈るの?」
マドロミ 「もちろん、忘れるために祈るのよ。でもね、それでも忘れきれないものがのこるでしょう。そのことを忘れないために私は祈るしかない、起きたばかりのまどろみの中で。」

 そこに希望はなく、絶望の中でひたすら鎮魂のために祈る声だけが残る。その祈りは、やがて生まれ来るものをひたすら待ち続けるためのものだ。

 雑感。練達の演出を私は大いに楽しんだが、一つ、書かれた漢字=文字の扱いにはもう少し工夫の余地があったように思わないでもない。
 たとえば、ピーター・グリーナウェイやサイモン・マクバーニーのような西洋の映画監督や演出家だったら文字の霊にどのように感応したろうか。
 そんなことを考えるのも舞台を観る楽しみの一つだ。


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