「寝顔にはよくその人の本性が現れると言うね。あれ、なぜなんだろう……?」
と、ある人から聞かれて、さあ、どうしてかなあ、と言って、姿勢を正すように背を伸ばしながら、つまりそれはね……、などとそれらしいことを思いつくままに口にしている。少しばかり気負って演技論を交えようとして、かえって話は混乱してしまったようなのだが……。
本性が現れるという言い方は、化けの皮が剥がれるとかいうように、露悪的な意味合いで使われることが多いよね。でも、眠っている時に現れる本性というのは、その人が本来持っている一番無垢な、生まれ持っている素の部分が出てくるということなんだろうな。凶悪な殺人者の寝顔が生まれたばかりの赤ん坊のようだというのはよく耳にすることだけど、あり得ない話じゃない……。
ところで、人は言葉を覚えるように、言葉遣いや表情、しぐさといったものを自分の親や周りの大人たちを真似ながら習得していく……、と、これは誰かの受け売りか、あるいは聞きかじっただけの根拠のない通説に過ぎない、と自分で自分に突っ込みを入れながら話を止めることが出来ない。
……それは善悪の判断や価値観といったものにも及んで、結局人は与えられたり、自分で選び取ったと思い込んでいる環境の中で、誰かの影響を受けまくりながら自我を形成していくんだ、本来持っていたはずの自分というものを見失いながら。《俳優》というのはその典型かも知れないな。
俳優は役作りのために、古典的な所作や型、様式といった枠を自分にはめ込んだり、舞台や映画で見た俳優の台詞回しや動きを模倣したり、バイト先や電車の中といった日常生活で観察して写し取ったあらゆるものを自分の身体に取り込みながら割り振られた役というものを作り上げていく。そうして様々な材料を積み重ねれば積み重ねるほど、気づかないうちに本来の自分はますます見えなくなってしまう。その俳優独自のオリジナルの演技なんてものは幻想に過ぎなくて、どこかで見たようなステレオタイプの安っぽい芝居が横行するというわけだ。
このことは俳優というものが、妄想や自己分裂、模倣癖といった、人間が共通して抱える問題の典型例だというだけで、人は誰でも日常生活の中で何かを演じている。人生という三文芝居の舞台で社会的に与えられた役柄を演じるために、必死に何かを真似してありきたりの役作りをしながら、心の中では、これは本当の自分じゃない、本当に演じたい役はこんなのじゃないと叫んでいる。
「でも、とても上手な俳優でこれは他の人には真似できないという演技をする人がいるよね……」と相手がこちらの言葉を誘い出すように言う。
本当にうまい俳優は、すぐにお里が知れるような単純な役作りはしないということだろう。誰かを真似したり、何かの影響を受けたりということは同じでも、それらをブレンドする調合の技術がより複雑で絶妙なんだと思う。でも、本当に優れた俳優というのはそうじゃない。逆に、そうして否応なく身についた様々なものを取っ払って引き剥がしていく。掛け合わせるんじゃなく、引き算しながら役作りをするんだ。
知らず知らずのうちに身に纏ってしまった錆のような衣を一見そうとは分からぬ手際で一枚一枚剥ぎ取っていき、もう何も無くなってしまうと思われた刹那、素知らぬ顔で無垢という名の仮面を被ってしれっとしているのが優れた俳優なんじゃないかな。
映画監督の小津安二郎はいかにも芝居じみた演技をする俳優を嫌ったそうだけど、それはつまり、二流三流の役者が賢しらに見せつけてくる役作りとやらに我慢ならなかったわけで、むしろ手垢のついていない、彩色前の人形のような姿かたちのまま、シナリオや映像の描き出す世界で存在することを彼は要求してたんだと思うな。
そこで、寝顔にその人の本性が現れるのは何故なのか、という話に戻るんだけど、理由は二つあるような気がするなあ。
まず一つには、人は自分の眠る姿を見ることが出来ない。
二つには、人は他人の眠る姿もあまり見ることはない。
アンディ・ウォーホールが、一人の男が眠る姿を8時間にわたって撮影した「スリープ」という映画があるそうだけど、そんなのは稀な例で、当の眠る姿を撮られた男だってその映画を全編見たかどうか知れたもんじゃない。
では、他人の眠る姿を我々がどのくらい見るかといえば、それだってたかが知れたものだろう。
ということで、こと眠っている状態の自分あるいは他人の姿について、我々はあまり分析するための材料を持ち合わせていない、ということが言えるだろう。
そのせいかどうか、下手な役者がいろいろなパターンで寝ている演技をすることがあるけれど、そのいかにもという芝居はとても見られたものじゃない。
人は自分の本当の《顔》も見ることは出来ない、と言われる。たしかに自分の顔を見るためには、鏡や写真、映像に写った自分の顔を見るしかないが、それは本当の自分ではないということだ。
しかし、幸か不幸か、人は鏡によって自分の顔を見るという手段を日常に持ち込んでしまった。そのことが人間をどれだけ妄想や自己分裂の迷路に追い込んでしまったことか。ある者は水鏡に映った自分に恋したナルキッソスのようにおのが姿に執着し、ある者は自分の顔を否定するあまり自身の存在そのものをなきものとして他人になりすまそうとする。
そうしたあらゆる自己矛盾や病理から無縁でいられるのが、唯一、眠る姿であり顔であると言ったら言い過ぎだろうか。
眠る自分自身の姿を見ることが出来ないからこそ、あらゆることから自由でいられる。そうした状態で夢の世界を飛翔し、深い眠りの海に潜り込む時、人ははじめて仮面も衣も脱ぎ捨てた、無垢な顔を獲得することが出来るんだと思うな。……
そんな私の話に納得したのか、あるいは疑問を深めたのかは分からないのだが、私の話し相手は深いため息をつく。
そこには、そんな幸せな眠りから見放され、不眠症に苛まれ疲れ果てた私の顔を訝しげにじっと見つめる顔がある。……それは、鏡に映った私自身の顔なのだ。
と、ある人から聞かれて、さあ、どうしてかなあ、と言って、姿勢を正すように背を伸ばしながら、つまりそれはね……、などとそれらしいことを思いつくままに口にしている。少しばかり気負って演技論を交えようとして、かえって話は混乱してしまったようなのだが……。
本性が現れるという言い方は、化けの皮が剥がれるとかいうように、露悪的な意味合いで使われることが多いよね。でも、眠っている時に現れる本性というのは、その人が本来持っている一番無垢な、生まれ持っている素の部分が出てくるということなんだろうな。凶悪な殺人者の寝顔が生まれたばかりの赤ん坊のようだというのはよく耳にすることだけど、あり得ない話じゃない……。
ところで、人は言葉を覚えるように、言葉遣いや表情、しぐさといったものを自分の親や周りの大人たちを真似ながら習得していく……、と、これは誰かの受け売りか、あるいは聞きかじっただけの根拠のない通説に過ぎない、と自分で自分に突っ込みを入れながら話を止めることが出来ない。
……それは善悪の判断や価値観といったものにも及んで、結局人は与えられたり、自分で選び取ったと思い込んでいる環境の中で、誰かの影響を受けまくりながら自我を形成していくんだ、本来持っていたはずの自分というものを見失いながら。《俳優》というのはその典型かも知れないな。
俳優は役作りのために、古典的な所作や型、様式といった枠を自分にはめ込んだり、舞台や映画で見た俳優の台詞回しや動きを模倣したり、バイト先や電車の中といった日常生活で観察して写し取ったあらゆるものを自分の身体に取り込みながら割り振られた役というものを作り上げていく。そうして様々な材料を積み重ねれば積み重ねるほど、気づかないうちに本来の自分はますます見えなくなってしまう。その俳優独自のオリジナルの演技なんてものは幻想に過ぎなくて、どこかで見たようなステレオタイプの安っぽい芝居が横行するというわけだ。
このことは俳優というものが、妄想や自己分裂、模倣癖といった、人間が共通して抱える問題の典型例だというだけで、人は誰でも日常生活の中で何かを演じている。人生という三文芝居の舞台で社会的に与えられた役柄を演じるために、必死に何かを真似してありきたりの役作りをしながら、心の中では、これは本当の自分じゃない、本当に演じたい役はこんなのじゃないと叫んでいる。
「でも、とても上手な俳優でこれは他の人には真似できないという演技をする人がいるよね……」と相手がこちらの言葉を誘い出すように言う。
本当にうまい俳優は、すぐにお里が知れるような単純な役作りはしないということだろう。誰かを真似したり、何かの影響を受けたりということは同じでも、それらをブレンドする調合の技術がより複雑で絶妙なんだと思う。でも、本当に優れた俳優というのはそうじゃない。逆に、そうして否応なく身についた様々なものを取っ払って引き剥がしていく。掛け合わせるんじゃなく、引き算しながら役作りをするんだ。
知らず知らずのうちに身に纏ってしまった錆のような衣を一見そうとは分からぬ手際で一枚一枚剥ぎ取っていき、もう何も無くなってしまうと思われた刹那、素知らぬ顔で無垢という名の仮面を被ってしれっとしているのが優れた俳優なんじゃないかな。
映画監督の小津安二郎はいかにも芝居じみた演技をする俳優を嫌ったそうだけど、それはつまり、二流三流の役者が賢しらに見せつけてくる役作りとやらに我慢ならなかったわけで、むしろ手垢のついていない、彩色前の人形のような姿かたちのまま、シナリオや映像の描き出す世界で存在することを彼は要求してたんだと思うな。
そこで、寝顔にその人の本性が現れるのは何故なのか、という話に戻るんだけど、理由は二つあるような気がするなあ。
まず一つには、人は自分の眠る姿を見ることが出来ない。
二つには、人は他人の眠る姿もあまり見ることはない。
アンディ・ウォーホールが、一人の男が眠る姿を8時間にわたって撮影した「スリープ」という映画があるそうだけど、そんなのは稀な例で、当の眠る姿を撮られた男だってその映画を全編見たかどうか知れたもんじゃない。
では、他人の眠る姿を我々がどのくらい見るかといえば、それだってたかが知れたものだろう。
ということで、こと眠っている状態の自分あるいは他人の姿について、我々はあまり分析するための材料を持ち合わせていない、ということが言えるだろう。
そのせいかどうか、下手な役者がいろいろなパターンで寝ている演技をすることがあるけれど、そのいかにもという芝居はとても見られたものじゃない。
人は自分の本当の《顔》も見ることは出来ない、と言われる。たしかに自分の顔を見るためには、鏡や写真、映像に写った自分の顔を見るしかないが、それは本当の自分ではないということだ。
しかし、幸か不幸か、人は鏡によって自分の顔を見るという手段を日常に持ち込んでしまった。そのことが人間をどれだけ妄想や自己分裂の迷路に追い込んでしまったことか。ある者は水鏡に映った自分に恋したナルキッソスのようにおのが姿に執着し、ある者は自分の顔を否定するあまり自身の存在そのものをなきものとして他人になりすまそうとする。
そうしたあらゆる自己矛盾や病理から無縁でいられるのが、唯一、眠る姿であり顔であると言ったら言い過ぎだろうか。
眠る自分自身の姿を見ることが出来ないからこそ、あらゆることから自由でいられる。そうした状態で夢の世界を飛翔し、深い眠りの海に潜り込む時、人ははじめて仮面も衣も脱ぎ捨てた、無垢な顔を獲得することが出来るんだと思うな。……
そんな私の話に納得したのか、あるいは疑問を深めたのかは分からないのだが、私の話し相手は深いため息をつく。
そこには、そんな幸せな眠りから見放され、不眠症に苛まれ疲れ果てた私の顔を訝しげにじっと見つめる顔がある。……それは、鏡に映った私自身の顔なのだ。
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