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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

「赤と黒」を読みながら考えたこと

2022-09-20 | 読書
スタンダールは小説のなかで政治を描くことについて、どのような考えを持っていたのだろうか。
「赤と黒」の第2巻22章のなかに次のような言葉が出てくる。

「……想像力の楽しみのただなかに政治をもちだすのはコンサートの最中にピストルを撃つようなもの」(野崎歓訳)

スタンダール自身は政治などとは無縁でいたいという考えを持っていたようで、上記の言葉も本心から出ているように感じるのだが、これに対し、想像上の対話における出版者は、この「赤と黒」の作者に向けて次のように言うのである。

「……だが、あなたの登場人物たちが政治の話をしないとすれば(略)それはもはや1830年のフランス人とはいえないし、あなたの本だって、もはやあなたが自負していらっしゃるような鏡ではなくなってしまう……」

スタンダールがわざわざこんな対話を作中に埋め込んでいるのは何故だろう?
もちろんこの小説中の作者が言うように、せっかくの面白い小説で読者を楽しませようとしているときに政治をもちだすのは、すべてを台無しにする暴挙だ、と言いたいわけではなく、一応そんな素振りを見せはしましたが、出版社がこんなことを言うものですからという免罪符を自らに与えつつ、読者に納得してもらうための詐術と考えるのが妥当だろう。

スタンダール自身の本心はともあれ、いまや政治の力学があらゆる人間を巻き込んでしまっている以上、人間と社会を映し出す「鏡」たる小説のなかで、そうした政治のありように光を当てないわけにはいかないということである。
そしてそれを描くことにスタンダールは極めてあざやかな力量を発揮したのだ。
政治的な力学や駆け引きが主人公の運命にただならぬ影響をもたらし、物語の光彩をより輝かせる。まさにそれが「赤と黒」や「パルムの僧院」が現在においても現代的な文学となり得ている所以と言えるのかも知れないのである。

以上はしかし、物語が、芸術が政治をあくまで材料として扱い得た時代の話である。
とりわけ顕著なのは20世紀に入ろうとする時代以降かと思うのだが、プロパガンダなるものがなりふり構わず政治が芸術を利用し始めたのだ。
そうしていつの間にか文化芸術そのものが政治のしもべとして利用される具材となり果ててしまっているのではないだろうか。このことに私たちはもっと敏感にならなければならないだろう。

これはどこの国を問わず言えることだろうが、国威発揚であったり、国の魅力を発信するという名目であったり、理由づけは様々だが、政治が文化芸術やスポーツを利用しつつある現状にはどうにも胡散臭いものを感じてしまう。
クールジャパンしかり、オリンピックしかり、それらは今や政治そのものと化してしまった感がある。

一方、その利用される側も、生き残りのために自ら身を捧げるようなしぐさをする場面のあることも事実である。
挙句の果てに、売れる芸術や稼げる文化が重要視される風潮が生まれてくる。

本当に大事なものは何か。自らに深く問いかける時である。


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