映画「レ・ミゼラブル」が公開からひと月以上を経てなお多くの観客を集めているようだ。今さらながらにこのミュージカルの作品としての力強さに感嘆する。
映画そのものは、どうだろう。様々な評価があるだろうが、映画ゆえに成し得たこともあれば、舞台でなければ味わえないものもあったというところか。
個人的には、登場人物のクローズアップの多用やCG処理した映像がやや趣味に合わない、というか違和感を覚えてしまったし、やはり群集の劇としての力強さは舞台でしか味わえないものだとの感を強くした。
それはともあれ、俳優たちの微細な感情を歌にのせて語る演技力には瞠目せざるを得ない。これはなかなか日本人の俳優にはかなわないのではないかと思ってしまったのだ。劇団四季ふうのといっては誠に失礼だが、わが国のミュージカル俳優の歌唱はどうしてものっぺりとした感じがして、生活感や感情の襞の彫り込みが薄っぺらに思えてしまう。
これは欧米の作曲家が創った楽曲に合わせて日本語で歌うことに起因しているのかもしれないのだが、言葉はすなわち文化そのものであり、言葉と音楽が不即不離のものとしてある以上、仕方のないことかもしれない。
これは輸入ミュージカルの宿命と言えなくもないのだろう。
一方で別の見方をするならば、いわゆるリアリズム演技なるものの弊害がここにはあるように思えるのだ。
よく「歌は語るように、台詞は歌うように」などと言われるけれど、新劇出身の演出家のダメ出しには「台詞を歌うな」というのがよくあって、この国のリアリズム演劇の世界では「歌う」ことはご法度なのだなとよく思ったものだ。
もっとも高校などの演劇部出身の若い俳優にありがちなのが、いわゆるこの「歌い台詞」で、表現の稚拙が重なった場合には誠に申し訳ないが聞いていられない仕儀となる。
しかし、である。わが国の古くからある芸能では、能狂言にしろ、文楽にしろ、歌舞伎にしろ、台詞はいずれも音曲とともに謡われてきたのである。
今は多様なジャンル出身の俳優たちによるコラボレーションも珍しくはなくなってきたから、闇雲なリアリズム信仰はもう過去のもののようにも思えるが、長い歴史を経て培われてきた財産をもう一度見直し、言葉と音楽の関係について再構築する必要があるのではないだろうか。
映画そのものは、どうだろう。様々な評価があるだろうが、映画ゆえに成し得たこともあれば、舞台でなければ味わえないものもあったというところか。
個人的には、登場人物のクローズアップの多用やCG処理した映像がやや趣味に合わない、というか違和感を覚えてしまったし、やはり群集の劇としての力強さは舞台でしか味わえないものだとの感を強くした。
それはともあれ、俳優たちの微細な感情を歌にのせて語る演技力には瞠目せざるを得ない。これはなかなか日本人の俳優にはかなわないのではないかと思ってしまったのだ。劇団四季ふうのといっては誠に失礼だが、わが国のミュージカル俳優の歌唱はどうしてものっぺりとした感じがして、生活感や感情の襞の彫り込みが薄っぺらに思えてしまう。
これは欧米の作曲家が創った楽曲に合わせて日本語で歌うことに起因しているのかもしれないのだが、言葉はすなわち文化そのものであり、言葉と音楽が不即不離のものとしてある以上、仕方のないことかもしれない。
これは輸入ミュージカルの宿命と言えなくもないのだろう。
一方で別の見方をするならば、いわゆるリアリズム演技なるものの弊害がここにはあるように思えるのだ。
よく「歌は語るように、台詞は歌うように」などと言われるけれど、新劇出身の演出家のダメ出しには「台詞を歌うな」というのがよくあって、この国のリアリズム演劇の世界では「歌う」ことはご法度なのだなとよく思ったものだ。
もっとも高校などの演劇部出身の若い俳優にありがちなのが、いわゆるこの「歌い台詞」で、表現の稚拙が重なった場合には誠に申し訳ないが聞いていられない仕儀となる。
しかし、である。わが国の古くからある芸能では、能狂言にしろ、文楽にしろ、歌舞伎にしろ、台詞はいずれも音曲とともに謡われてきたのである。
今は多様なジャンル出身の俳優たちによるコラボレーションも珍しくはなくなってきたから、闇雲なリアリズム信仰はもう過去のもののようにも思えるが、長い歴史を経て培われてきた財産をもう一度見直し、言葉と音楽の関係について再構築する必要があるのではないだろうか。
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