もう先週のことになるが、16日の日曜日、「にしすがも創造舎」のカフェで行われた「ちいさな詩の朗読会-旧朝日中学校の記憶と子どもたちの詩」に行ってきた。
これは同施設を運営する2つのNPO法人の一つである「芸術家と子どもたち」が行ったワークショップの発表会であり、詩人の上田假奈代さんと7人の子どもたちが、かつて中学校の校舎だったこの施設を卒業生のお姉さん、お兄さんたちと一緒に歩いて教室や職員室、給食室などにまつわるなつかしい話を聞いたり、いまはもうおじいさんになっているこの学校の1回生だった人たちの話を聞いたりする中で、「もと学校」だった場所の記憶や人々の思い出と出会い、ゆっくりと自分自身の「ことば」を見つけながら詩をつくり、それを声に出して人々に届けようという試みである。
「子どものいるまちかどシリーズvol.5」と銘打っているように、「芸術家と子どもたち」が行うこのワークショップもすでに5回を数えているのだが、一貫して地域の記憶や日常をアーティストと子どもたちが新たな視点で再発見していくというこの取り組みを私はとても気に入っている。
「朗読会」は子どもたちとそれを聴く私たちの身体がそれこそ接するくらいの狭い空間で行われたのだが、それがよかった。人前で声を出し、表現することに決して慣れているわけではない子どもたちの息遣いや、時としてはにかみ、逆に心のどこかで自慢気があったり、こんなこと何でもないとでもいうようにことさら何気ないふうのポーズをつくる姿が微笑ましく思える。
それにしても詩の「ことば」とは不思議なものだ。それが文字面でなく音として聴く、あるいは受け止めるという聴き手側の行為と相俟ってその場でしか感じられない空間を創り上げていく。これもまた表現なのだ。私は子どもたちの声をとおして、この旧校舎に響いた様々な声を聴いた、ような気がする。満ち足りた時間を私は味わった。子どもたちにとってもそれは大きな体験となって心の中に残っていくに違いない。
最後に、上田假奈代さんが自作の詩を聴かせてくれて、「ちいさな詩の朗読会」は終わった。ほんわかとした関西訛りで、言葉の一つひとつを慈しむようにゆっくりと語りかける彼女の声もまたいつまでも私の心の中に残り続けるだろう。
今回、子どもたちが体験したのは、場の記憶や人々の思い出に感応しながら、自分自身の言葉をさがすという行為である。そうした行為が連綿とつながって「いま」がある。歴史が形づくられる。あらゆる芸術はそうした記憶のそれぞれに向き合い、じっくりと耳を傾けるということなのかも知れない。
チェーホフの小説「中二階のある家」をこの数年間、折りあるごとに私は何度も何度も読み返しているのだが、そのたびに最後の数行に心を震わされてしまう。詩や小説、物語は、そのように過ぎ去ったものに心を寄せ、記憶を手繰り寄せながら、さまざまな人の声を聴きとろうとする試みにほかならないのだ。
最近読み始めたのでことさらそう思うのかも知れないのだが、千年前に書かれた「源氏物語」もまた、そうした、今ここにはいないけれど、私たちが夢み、想い続ける誰かや失われたものに寄せるせつなさに満ち溢れている。そう考えると、千年前の宮廷の女官と西巣鴨の小さな子どもたちの姿が重なって見えてくる------。
これは同施設を運営する2つのNPO法人の一つである「芸術家と子どもたち」が行ったワークショップの発表会であり、詩人の上田假奈代さんと7人の子どもたちが、かつて中学校の校舎だったこの施設を卒業生のお姉さん、お兄さんたちと一緒に歩いて教室や職員室、給食室などにまつわるなつかしい話を聞いたり、いまはもうおじいさんになっているこの学校の1回生だった人たちの話を聞いたりする中で、「もと学校」だった場所の記憶や人々の思い出と出会い、ゆっくりと自分自身の「ことば」を見つけながら詩をつくり、それを声に出して人々に届けようという試みである。
「子どものいるまちかどシリーズvol.5」と銘打っているように、「芸術家と子どもたち」が行うこのワークショップもすでに5回を数えているのだが、一貫して地域の記憶や日常をアーティストと子どもたちが新たな視点で再発見していくというこの取り組みを私はとても気に入っている。
「朗読会」は子どもたちとそれを聴く私たちの身体がそれこそ接するくらいの狭い空間で行われたのだが、それがよかった。人前で声を出し、表現することに決して慣れているわけではない子どもたちの息遣いや、時としてはにかみ、逆に心のどこかで自慢気があったり、こんなこと何でもないとでもいうようにことさら何気ないふうのポーズをつくる姿が微笑ましく思える。
それにしても詩の「ことば」とは不思議なものだ。それが文字面でなく音として聴く、あるいは受け止めるという聴き手側の行為と相俟ってその場でしか感じられない空間を創り上げていく。これもまた表現なのだ。私は子どもたちの声をとおして、この旧校舎に響いた様々な声を聴いた、ような気がする。満ち足りた時間を私は味わった。子どもたちにとってもそれは大きな体験となって心の中に残っていくに違いない。
最後に、上田假奈代さんが自作の詩を聴かせてくれて、「ちいさな詩の朗読会」は終わった。ほんわかとした関西訛りで、言葉の一つひとつを慈しむようにゆっくりと語りかける彼女の声もまたいつまでも私の心の中に残り続けるだろう。
今回、子どもたちが体験したのは、場の記憶や人々の思い出に感応しながら、自分自身の言葉をさがすという行為である。そうした行為が連綿とつながって「いま」がある。歴史が形づくられる。あらゆる芸術はそうした記憶のそれぞれに向き合い、じっくりと耳を傾けるということなのかも知れない。
チェーホフの小説「中二階のある家」をこの数年間、折りあるごとに私は何度も何度も読み返しているのだが、そのたびに最後の数行に心を震わされてしまう。詩や小説、物語は、そのように過ぎ去ったものに心を寄せ、記憶を手繰り寄せながら、さまざまな人の声を聴きとろうとする試みにほかならないのだ。
最近読み始めたのでことさらそう思うのかも知れないのだが、千年前に書かれた「源氏物語」もまた、そうした、今ここにはいないけれど、私たちが夢み、想い続ける誰かや失われたものに寄せるせつなさに満ち溢れている。そう考えると、千年前の宮廷の女官と西巣鴨の小さな子どもたちの姿が重なって見えてくる------。
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