劇場にとって、いつか閉鎖される日が来る、というのは宿命なのだろうか。
東京・表参道の「青山劇場」と「青山円形劇場」が2015年3月末で閉館することが発表され、さらに都心の「ル・テアトル銀座」も来年5月末で営業終了することが決まったと報道されている。
いずれも施設の改修費や更新費用の見込みがたたないことが理由であるという。
青山の劇場は厚生労働省が主管する公益財団法人児童育成協会の運営、銀座の劇場はかつてセゾン・グループの文化戦略の中核拠点であったが東京テアトルに所有権が移り、パルコが委託を受け運営しているという違いはあるものの、どの劇場も高い稼働率を有し、わが国における舞台芸術の進展に大きく寄与した実績を誇るという点で共通している。
地元の渋谷区議会では閉館見直しを求める意見書を全会一致で議決、演劇関係者が存続を呼びかける署名運動も始まったそうなのだが……。
これほど多くの人々に愛され、惜しまれる公共財産でありながら消えゆく運命にあるのは何故なのか。何年か前にも関西にある数多くの劇場が閉鎖されるニュースが駆け巡っていた。
どれほど優れた舞台芸術を生み出した劇場であっても所詮経済効率の前には無力でしかないこの現実を私たちはどのように考えればよいのだろう。文化的波及力などといったところで、結局現下の経済低迷の折、財政難を理由にした仕分けの前には為すすべもないのか。
もっとも、私のような根っからのアングラ俳優にとって、このたびの騒動は結局遠い世界の話でしかない……、といささか斜に構えた物言いをしたくなってしまう。
ル・テアトル銀座の前身である銀座セゾン劇場ではいくつもの優れた舞台を観たし、玉三郎の舞踊とバリシニコフのバレエのコラボレーションした作品や、デヴィット・ルヴォーの演出で松本幸四郎がマクベスを演じた舞台は今もはっきりと覚えているし、青山円形劇場でもたくさんの忘れ難い作品がある。
ただ、青山劇場にはとんと縁がなかった、というか、私が関心を持つ作品が上演されていなかったというだけのことで、これは単に趣味の問題でしかない。
要は、その程度のことなのだ。たしかにもったいないとは思うけれど、これらの劇場がなくなったからといって世界が崩壊するわけではないし、この世から演劇が消えてなくなるわけでもない。
相変わらず渋谷駅前の交差点では芝居など一度も見たことがないような群衆が押し合いへし合い行き交っているだろうし、新しくオープンした劇場では昨日の劇場のことなどすっかり忘れて、新たな観客を呼び込むための宣伝に躍起になっていることだろう。
あまりにひねくれた考えと言われてしまうかも知れないが、この変化とイノベーションの時代に「劇場」だけがいつまでも「不変の価値を保つ」などと思い込むのはそれこそ時代錯誤のお笑い草である。
一方、国民はその国民のレベルに相応しい政治家しか持つことができないという意味の言葉があったと思うけれど、劇場もまたしかり、なのだ。
その国の本当の姿を知るためには、その国の文化芸術や劇場を見れば一目瞭然であることは確かだ。
いろいろなことを考えてしまう。
不思議ではないか。今にも消えてしまうという今になって大騒ぎする前に、世の演劇人とやらはその劇場のためにこれまで何をやってきたのだろうか。劇場がこの世界にとってなくてはならないのだと人々に知らしめるためにどんな働きかけをしてきたというのか。
意見書を採択した渋谷区議会の議員さんたちはこれまでに何度これらの劇場に足を運んで舞台を観たのか。
劇場の経営者は、将来の大規模修繕に備えて基金を積むといった努力を何故してこなかったのか。
劇場建設のコンサルタントはいるけれど、劇場経営のコンサルタントがいないのは何故なのか。
演劇評論家は数多くいるが、劇場評論家がいないのは何故なのか。
劇場で過ごした時間が人生を豊かにしたと本気で語る人がいないのは何故なのか。
世のビジネスマンたちは株価の上下に関心を持つように、何故昨夜の舞台の出来栄えを話題にしないのか。
社会保障や消費税の動向と同じように、政治家たちは、人々は、劇場で上演される舞台作品のことを何故語らないのか。
結局、教育の問題に行き着くのかも知れないのだけれど、演劇にとどまらず、芸術というものが、人生にとって、日常の生活にとっての必需品であることを知ることは、あらゆる人々にとっての権利なのだ。
その権利を保障し、確認するためにこそ劇場はある……のかも知れない。
すべての小中学生、高校生が月に一度は劇場で舞台を楽しみ、議論し、批評しあう時間を持つべきだ。
あらゆる大学が、劇場に行くことをカリキュラムに取り入れるべきなのだ。
新設大学の認可で物議を醸す前に、文科相にはやるべきことがある。
東京・表参道の「青山劇場」と「青山円形劇場」が2015年3月末で閉館することが発表され、さらに都心の「ル・テアトル銀座」も来年5月末で営業終了することが決まったと報道されている。
いずれも施設の改修費や更新費用の見込みがたたないことが理由であるという。
青山の劇場は厚生労働省が主管する公益財団法人児童育成協会の運営、銀座の劇場はかつてセゾン・グループの文化戦略の中核拠点であったが東京テアトルに所有権が移り、パルコが委託を受け運営しているという違いはあるものの、どの劇場も高い稼働率を有し、わが国における舞台芸術の進展に大きく寄与した実績を誇るという点で共通している。
地元の渋谷区議会では閉館見直しを求める意見書を全会一致で議決、演劇関係者が存続を呼びかける署名運動も始まったそうなのだが……。
これほど多くの人々に愛され、惜しまれる公共財産でありながら消えゆく運命にあるのは何故なのか。何年か前にも関西にある数多くの劇場が閉鎖されるニュースが駆け巡っていた。
どれほど優れた舞台芸術を生み出した劇場であっても所詮経済効率の前には無力でしかないこの現実を私たちはどのように考えればよいのだろう。文化的波及力などといったところで、結局現下の経済低迷の折、財政難を理由にした仕分けの前には為すすべもないのか。
もっとも、私のような根っからのアングラ俳優にとって、このたびの騒動は結局遠い世界の話でしかない……、といささか斜に構えた物言いをしたくなってしまう。
ル・テアトル銀座の前身である銀座セゾン劇場ではいくつもの優れた舞台を観たし、玉三郎の舞踊とバリシニコフのバレエのコラボレーションした作品や、デヴィット・ルヴォーの演出で松本幸四郎がマクベスを演じた舞台は今もはっきりと覚えているし、青山円形劇場でもたくさんの忘れ難い作品がある。
ただ、青山劇場にはとんと縁がなかった、というか、私が関心を持つ作品が上演されていなかったというだけのことで、これは単に趣味の問題でしかない。
要は、その程度のことなのだ。たしかにもったいないとは思うけれど、これらの劇場がなくなったからといって世界が崩壊するわけではないし、この世から演劇が消えてなくなるわけでもない。
相変わらず渋谷駅前の交差点では芝居など一度も見たことがないような群衆が押し合いへし合い行き交っているだろうし、新しくオープンした劇場では昨日の劇場のことなどすっかり忘れて、新たな観客を呼び込むための宣伝に躍起になっていることだろう。
あまりにひねくれた考えと言われてしまうかも知れないが、この変化とイノベーションの時代に「劇場」だけがいつまでも「不変の価値を保つ」などと思い込むのはそれこそ時代錯誤のお笑い草である。
一方、国民はその国民のレベルに相応しい政治家しか持つことができないという意味の言葉があったと思うけれど、劇場もまたしかり、なのだ。
その国の本当の姿を知るためには、その国の文化芸術や劇場を見れば一目瞭然であることは確かだ。
いろいろなことを考えてしまう。
不思議ではないか。今にも消えてしまうという今になって大騒ぎする前に、世の演劇人とやらはその劇場のためにこれまで何をやってきたのだろうか。劇場がこの世界にとってなくてはならないのだと人々に知らしめるためにどんな働きかけをしてきたというのか。
意見書を採択した渋谷区議会の議員さんたちはこれまでに何度これらの劇場に足を運んで舞台を観たのか。
劇場の経営者は、将来の大規模修繕に備えて基金を積むといった努力を何故してこなかったのか。
劇場建設のコンサルタントはいるけれど、劇場経営のコンサルタントがいないのは何故なのか。
演劇評論家は数多くいるが、劇場評論家がいないのは何故なのか。
劇場で過ごした時間が人生を豊かにしたと本気で語る人がいないのは何故なのか。
世のビジネスマンたちは株価の上下に関心を持つように、何故昨夜の舞台の出来栄えを話題にしないのか。
社会保障や消費税の動向と同じように、政治家たちは、人々は、劇場で上演される舞台作品のことを何故語らないのか。
結局、教育の問題に行き着くのかも知れないのだけれど、演劇にとどまらず、芸術というものが、人生にとって、日常の生活にとっての必需品であることを知ることは、あらゆる人々にとっての権利なのだ。
その権利を保障し、確認するためにこそ劇場はある……のかも知れない。
すべての小中学生、高校生が月に一度は劇場で舞台を楽しみ、議論し、批評しあう時間を持つべきだ。
あらゆる大学が、劇場に行くことをカリキュラムに取り入れるべきなのだ。
新設大学の認可で物議を醸す前に、文科相にはやるべきことがある。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます