毎日が日曜日・でも多忙です!

おかげさまで、毎日を元気に楽しく過ごしています。普段の出来事、思いつくことなどフリーの立場で記録したいと思います。

あれから1年「熊本地震」

2017-04-16 10:12:37 | 日記

 我が家の小さな庭の〝カエデ”や〝やまぼうし”、〝花みずき”などの木々に芽吹いた朱や萌黄色の若葉に思わず見とれてしまいます。

         

        

 未曽有の被害をもたらした「熊本地震」から16日で1年がたちました。地震が発生した時の怖さといったらたとえようがありません。幸い我が家の被害はわずかでしたが、災害の全体を知りたくなり、熊本日日新聞社発行の特別報道特集写真集「平成28年熊本地震(発生から2週間の記録)」を開いてみました。掲載された何枚かの写真は、言葉に言い尽くせないほどの悲惨な被害の状況が掲載されていました。わずかな我が家の被害や死ぬかと思うほど恐ろしかった地震の恐怖などは話にもならないようです。

 16日に震度7の本震がありました。翌日のブログに体験した地震の恐怖をつぎのように記しています。(以下は昨年17日のブログです)

 下から突き上げるような揺れの後に、立っていられないほど大きな横揺れが来てベットの上で跳びあがった。16日午前1時25分ごろと同46分ごろ。熊本県で最大震度6強、地震の規模を示すマグニチュードは7.3。阪神淡路大震災と同じ強さの地震が起こった。1昨日(14日)の地震とは比べられないほど揺れている。

 揺れがあってから数時間、余震は間断なくまた切れ目なく続いた。その怖さといったらたとえようがない。築30年を超える老朽住宅に住むわたし、家の揺れるものすごい音を聞き、何することもできずに、ただ震えながら部屋の中にうずくまっている自分が腹立たしい。14日の地震発生からは恐怖の連続だ。死さえも考えた。

 震度3以上の余震は朝までに30回を超えた。お昼をすぎても収まる気配はない。震度3以下の余震を含めるといくつの地震が発生したことだろう。まったくわからず不安は増すばかりだ。専門家の話によると、この地震はいま活動期にあり活発な動きを見せていて、いつ収束するか見通せないという。

 「熊本地震」の発生から1年がたった15日、県内各地では犠牲となられた方々の追悼式が開かれたそうです。

 大きな被害を受けた熊本城の復旧工事ですが、やっと天守閣の工事が始まったようです。

 復旧工事の1日も早いことを願いながら、いつの日か復興なった熊本城を訪れる日を夢見ています。


八景水谷公園のさくら

2017-04-13 14:55:44 | 日記

 青空の広がる春の陽気に誘われ、散り始めたさくらを見ようと八景水谷公園を訪れた。

              

                     

                

  鹿児島では観測史上一番遅い開花宣言が今日出されたそうだ。九州各地何処(いずこ)も開花宣言は例年より遅れている。さらに、開会宣言があってからもしばらく雨の日が続いた。だが、今年の花見。年を取って明日はどうなるかわからない。今日が最後の花見となるかもしれないと、老夫婦は精力的に熊本城や立田山。さらには八景水谷公園と桜をみてまわった。娘夫婦とエアー花見も体験した。

 今年ほどさたくさんのさくらの花をゆっくりと眺めたことはない。花は美しくきれいで素晴らしかった。夢を見ているようでもあった。来年も満開のさくらの下で花見ができるだろうかとふと考える。  


4月10日は我が家の大事な記念日です

2017-04-11 08:43:46 | 日記

 外出中の〝うちの奥さま。”雨の降る中を「今日は大事な日」とシャンパンと白ワインを買って帰ってきました。

  人それぞれに記念すべき大切な日があります。

  私のまた我が家の記念の日の一つが4月10日です。その日は、中学を卒業したばかりの15歳の私が、国家公務員としての人生の第一歩を踏み出した日なのです。

 最初に戴いた辞令書には「電気通信省熊本電気通信学園電信業務部訓練生・電気通信省事務員補」とありました。有線通信士を養成するための訓練生として15歳の少年が熊本の地で、9か月間の訓練を受けることとなったのです。

 学園は全寮制でした。寮は木造2階建て、20室ある15畳の部屋の1室に、8人の訓練生が一緒の生活を送ることになりました。部屋には大人のような高卒の方2名も一緒でした。食糧難の時代でした。いつもおなかをすかしながら、遠く離れた門司にいる家族のことを思い出していたものです。

 英語や国語、数学の授業もありましたが、主となる授業はモールス信号をおぼえることでした。トンツ―、トンツ―。毎日のように試験がありました。朝起きてから寝るまで、深夜布団の中でもトンツ―トンツ―のいろは48文字、それにabcのアルファベット26文字と通信記号のモールス符号をお経のように繰り返し繰り返し暗唱したものです。床に入って見る夢の中でも、はたして1人前の通信士になれるのだろうかと不安が付きまとったものです。

 9カ月の訓練を終えたのはその年の12月9日。どうやら落伍せずに修了証書をいただくことができました。幸いなことに配属になったのは家族の住む門司の電報局でした。また家族と一緒に暮らすことができる。その時の感激とうれしさといったらありません。

 電報局で通信の第1線に配属にはなったもののいまだ未熟な通信士です。だが1月もたつと当直を命ぜられるようになりました。当直の夜は仮眠時間をのぞいて、各地からの電報を夜を徹して処理しなければなりません。

 深夜、毎日新聞社あてに長い新聞電報がはいります。午前1時を過ぎたころにはイギリスの領事館にあてて公電が届きます。大きな船が関門海峡を通過するときは船長でなく水先案内人が指揮を執らなければなりません。海峡の入り口にある六連島近くに船が着くと水先案内人を依頼する電報が入ります。通知が遅くなると大変です。1時間停泊が長くなると当時のお金で35万円と聞いていました。

 失敗もあります。当直の夜、睡魔に襲われ案内人宛ての電報を30分遅らせたことがあります。大変でした。直接、電報局長が船会社に謝罪に行き、どうやらおさまったとお聞きしました。

 中学を出てすぐに公務員となった学園での厳しい訓練と寮生活、通信士として過ごした門司の電報局。60有余年を過ぎた今も、走馬燈のように思い出は通りすぎてゆきます。

 〝うちの奥さま”には、おりにふれ青春時代の思い出としてこの日のことを話していました。いつの日からか、この日は我が家の大事な記念日となったのです。

 今夜は、おいしいシャンパンをいただきながら、52年を超える長い結婚生活の思い出や長い人生の出発点となった学園生活など、尽きぬ思い出を語り会う楽しい食事の時間となりました。

    ※今はすたれてしまったモールス通信ですが、当時は花形で世界中で使われていました。救援信号のSOSは、モールス信号のトン・トン・トン・ツー・ツー・ツー・トン・トン・トンとなります。


満開のサクラの下でささやかなお花見

2017-04-10 15:59:02 | 日記

 今日こそは満開のサクラをじっくり見たいと、散歩を兼ねて近くの立田山に登った。立田山は小さな低いお山。標高は約150㍍、家から約10キロのところにある。

 立田山は熊本城と並ぶサクラの名所。山に入ると満開のヨシノザクラやしだれざくらがその美しさを競うかのように咲き乱れ、風の吹くたびに花びらがヒラヒラと飛んでゆく。近くにはサクラに負けじとばかりに、こぶしの白い花や椿の真っ赤な花が咲いている。

 天気は良くないが、途中、コンビニで買ったおにぎりとお茶で、満開のサクラにかこまれ老人夫婦のささやかな花見が始まった。壺形の白いかわいらしい小花の開くドウダンつつじはまだ少し早い。かえでの新芽はういういしい。

         

           

               

  心行くまでの楽しい花見でした。〝うちの奥さま”と「またこようね」とにっこり顔を見合わせました。 

    

 

 

 

 

  


エアー花見とお弁当

2017-04-08 09:19:23 | 日記

 桜の時期に降る雨を「桜雨」というが、今年の「桜雨」、満開のさくらにとっては無情としか言いようがない。開花宣言があってからこの数日雨の降らない日がない。今朝も強い雨が屋根をたたいている。

 満開のさくらを見ようと、日頃、疎遠になりがちな娘たちと「花見の宴」を開こうと計画したのだが、お花見には必ずお弁当が付きもの。少し豪華な〝弁慶”(日航ホテル)のお弁当が欲しいのだが、3日前の予約が必要という。さらに注文は5個以上でなければ受け付けないとある。

 我が家の一族は全員集合してもわずか5人。孫は京都で花見だろうから、お弁当は4つしか必要ない。4個だがどうにかできないかとお願いするがそれはできないそうだ。娘が言った〝どうせ誰かがいただくのだろから5個頼んだら”と。途端に1人前の出費が増えた。

 夜になっても雨はやみそうにない。お弁当は取りあえず、今はやりの〝エアー花見”の添え物に。でもこのお弁当、無理は承知でお願いしたのだが、見栄えといい、そしておいしいことといったらこの上なし。おいしいワインと話は弾んだ。

 雨に降られ残念だった〝エアー花見”。だが、弁慶の素適なお弁当が、また一つ忘れられない思い出を作ってくれた。