俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

手話(2)

2014-01-31 10:00:16 | Weblog
 もし万国共通語が生まれるならそれは言語ではなく手話ではないだろうか。
 現代でも全く言葉の通じない相手とのコミュニケーションには身振り手振りを使うが、かつてはかなり広く使われていたのではないだろうか。人類の視力は聴力よりも遥かに優れている。「百聞は一見にしかず」と言うように誰もが視力の優越性を認めている。
 ではなぜ身振り手振りは廃れて言語は発達したのだろうか。言語は警鐘から発達したと考えられる。多くの群居動物が特殊な鳴き声によって仲間に危険を知らせる。警鐘であるなら音によって伝達したほうが都合が良い。
 しかし情報伝達のためなら視覚に訴えたほうが有利だ。自然界で最も優れた情報伝達は視覚に基づいている。それは蜜蜂による8の字飛行だ。これによって蜜の量・距離・方角が伝えられているらしい。
 視覚を使ったほうが情報伝達量は増える。それが発展しなかったのは保存が難しかったからではないだろうか。ここで実に奇妙な仮説を提案したい。身振り手振りが廃れたのは文字が作られたからだ、と。身振り手振りは保存できないが文字なら保存できる。ここで言葉と身振り手振りに決定的な差が生まれた。その後、レコード(record=記録)やラジオが作られた。これらは音だけを伝える装置だ。こうして音の優位性が拡大された。しかし今やテレビやDⅤDやパソコン通信などによって動画を送受信して保存することが可能になった。文明の進歩によって視覚による伝達の弱点が克服された。
 近い将来、人類の文化が劇的に変革するように予感する。言語による伝達から動作による伝達へという大転換だ。その時ベースとなるのは人類共通語となった手話だろう。人類最古のメッセージは壁画だった。将来の最も濃密なメッセージは手話を使った動画になるのではないだろうか。

本能との協調

2014-01-31 09:27:47 | Weblog
 本能に逆らうべきではない。本能とは協調すべきだ。文明化によって本能を抑え込むことなどできない。進化史の蓄積である人類の本能はそんなことでは矯正されない。
 抑圧された性欲が神経症の原因になることをフロイトは見抜いた。これは性欲を無条件に解放せよという意味ではない。性欲が存在することを認めて理不尽に否定すべきではないということだ。変な喩え話だが、もし排泄することの存在を認めなければどうなるか、街中が汚物で溢れてしまうだろう。排泄物の存在を認めてこそ対処できるように、性欲の存在を認めれば対応策も見出せる。
 怒りも本能的な感情だ。怒りを無暗に発散すべきではないが抑圧することは危険だ。怒りも性欲と同様に自覚される必要がある。怒りを正当な感情と認めてその怒りの原因を解決すべく理性的に行動することが必要だ。
 総ての動物と同様、人類の祖先もまた食い溜めをする動物だった。遠い先祖だけではなくほんの1万年前に農業を始めるまでは摂食活動は不安定だった。いつ食料が得られるか分からないから食べられる時にはできるだけ沢山食べた。この性質も本能として残っているだろう。だから人は放っておけば食べ過ぎる。
 人類には群居本能が備わっている。だから群れることが心地良いし細やかな心配りも可能だ。しかし群居本能は諸刃の剣だ。異端者を嫌悪して排除しようとする。群居本能のメリットとデメリットが正しく理解されれば社会はもっと良いものになり得る。
 本能と知性が異なる方向を目指せば混乱することは必至だ。本能が導くままに行動すべきではないが、社会秩序に背く本能が存在することを認めた上で、なぜそれがそうしようとしているかを正しく理解する必要がある。