俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

古代日本語

2014-02-07 09:59:40 | Weblog
 古代の日本語は何種類あったのだろうか。フィリピンには今でも百種類ほどの言葉がある。首都マニラのあるルソン島ではタガログ語、セブ島ではセブアノが多く使われている。日本にも同程度の種類の言葉があっても不思議ではない。ガラパゴス諸島の島々にそれぞれの固有種がいるように島ごと・地域ごとに固有語あったと考えるべきだろう。
 しかし古事記や日本書紀を読んでいると言葉の壁が全く感じられない。大国主命の国譲り伝説においても話し合いをしているが、それまで交流の無かった異国の人間の間で言葉が通じる筈が無い。
 あるいは神武東征において高千穂を出たイハレビコは安芸や吉備を経由して橿原へと至る。多分それぞれの土地で違った言葉が使われていたと思うのだがその点は全く読み取れない。
 もっと不思議なのは百済などと頻繁に往来しているがどんな言葉を使っていたのだろうか。全く言葉の壁が感じられずまるで日朝共通語があったかのようだ。
 これらのことが可能だったのは言葉を殆んど使っていなかったからではないだろうか。
 しかしその一方で日本語がかなり広く使われていた痕跡もある。琉球語では「西」と「東」をそれぞれ「イリ」「アガリ」と読む。これは太陽と月の入りと上がりが語源らしい。特別天然記念物のイリオモテヤマネコは西表山猫と書く。琉球語には他にも日本語の古語が多く残っているらしいがどういう経緯で伝わったのか私の乏しい琉球史の知識ではさっぱり理解できない。
 かつて高砂族と呼ばれた台湾先住民は部族ごとに違う言葉を使っていたので、違う部族の老人が喧嘩をする時には一時期共通語だった日本語を使ったそうだ。日本人が基本的に単一の言葉を使うのは実に不思議なことだ。

進化論

2014-02-07 09:27:35 | Weblog
 進化論が嫌いな人がいる。しかし嫌われる科学理論があるとは奇妙な話だ。科学は事実の叙述に過ぎない筈だ。かつて地動説が教会に嫌われたことがあったがなぜ進化論が嫌われるのかよく分からない。彼らの多くは進化論を優生学のようなものだと思い込んでいるようだ。学校は一体どういう教育をしているのかと思う。全く逆だ。優勝劣敗・弱肉強食は進化論ではない。進化論で言う生存競争とは適者生存のことだ。適者の条件は無数にあり、価値の多様性こそ進化論の本質だ。
 種族内淘汰(性淘汰)だけを見てもその多様性に驚かされる。性淘汰の適者はゴリラやゾウアザラシのような強者だけではない。鳥類や昆虫類で特に目立つが、容姿・鳴き声・ダンス・貢ぎ物・知恵・巣の出来栄えなど種ごとに無数の適者が存在する。こんな多様性が魚類から哺乳類に至る殆んどの動物で見掛けられる。強弱だけの一元論に陥っている人は進化論から多様性の素晴らしさを学ぶべきだろう。
 動物も植物も適者であり、水中の生物も地上の生物も適者だ。肉食動物も草食動物も適者であり、肉食動物をより優れたものと考えるのは似非進化論だ。生物の多様性こそ進化論が描く世界であり少数者への収斂はあり得ない。進化論は現在の多様な生物がどのようにして誕生したかを、時間という軸に基づいて解き明かす学問だ。
 私は妙に女性学者の説く進化論に共感する。竹内久美子氏や長谷川眞理子氏の著書を愛読している。それは私とは違った発想を持っているからだろう。視点が違うからこそ教えられることが多い。進化論を研究する優れた女性学者が多いのはこれが決して差別的ではないことの証しだろう。
 逆にジェンダー論を振り回すフェミニストには差別意識や僻みが目立つ。動物としての男女の違いを否定するような、事実よりも政治を優先する姿勢は学者として、いや人間として恥ずかしいことだ。