俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

免疫力

2014-02-27 10:00:01 | Weblog
 万能薬はあり得ない。血管を拡張する薬が、必要とあれば収縮させることなど無いし、ウィルスを殺す薬がそれ以外の有効性を発揮することも、データ改竄でもしない限り無かろう。薬は所詮、対症療法に過ぎない。
 万病に対処することは可能だ。免疫力を高めれば殆んどの病気に強くなれる。しかし残念ながらどうすれば免疫力が高まるかは解明できていない。現時点で分かっていることはストレスの軽減や休養や栄養によって免疫力が高まるということぐらいだ。
 逆に免疫力を下げる方法なら分かっている。上記の逆を選ぶか後天性免疫不全症候群(HIV要するにエイズ)を患えば確実に極端に低下する。HIVの発症を遅れさせる方法ならあるが、残念ながらこれはレトロウィルスの活動を弱めるだけであり、免疫力を高める方法が確立された訳ではない。やはり対症療法に過ぎない。
 健全と不全の間には無数のレベル差がある。これは黒と白の間に無数のグレーがあるのと同じことだ。だからほんの少しだけ免疫力を高めることを軽視すべきではない。その少しの差が発病する・しないの分岐点になるかも知れない。
 例えば怒りや恨みなどのネガティブな感情は副交感神経の働きを抑えて免疫力を下げるらしい。しかし私の如き俗物が何事にも動じない悟りの境地に達することなど無理だ。むしろ怒りの発生を肯定してそれを抑圧せずに自覚することによって正しく発散することを心掛けている。莫妄想(まくもうぞう)という「済んだことにはくよくよしない」という立場が私の目標だ。そして個々ではほんの少しの違いであろうとも毎日積み重ねれば、20年・30年も経てばそれなりに大きな違いになるだろう。健康とは病気でないという状態のことではなく、自らの努力によって獲得できる高い免疫力を意味するのではないだろうか。

証明責任(2)

2014-02-27 09:26:36 | Weblog
 証明責任は訴える側にある。例えば私が誰かを泥棒と咎めたければ私にはそれを証明する義務が生じる。その一方、訴えられた人には証明責任は無いし多分それは不可能だろう。そもそも誰が、自分が泥棒でないことを証明できるだろうか。世界中の誰一人としてそんなことはできない。容疑者にされた人は必ずこう言うだろう「泥棒呼ばわりするのなら根拠を示せ」と。
 このように犯罪は訴える側に証明責任がある。こんな常識を無視して容疑者に証明責任を課しているのが偽りの戦中史だ。従軍慰安婦の強制連行や百人斬りや南京30万人虐殺などの証拠は無い。それにも拘わらず無罪を証明できないことを理由にして有罪としたのが欺瞞だらけの東京裁判だ。朝日新聞の論法はもっと凄い。たとえ証拠が無くても事実は揺るがないとまで強弁する。こんな論法が通るのなら我々全員が凶悪犯罪者にでっち上げられてしまう。恐ろしい話だ。これでは冤罪だらけになる。
 余りにも馬鹿馬鹿しい話なのでこれまで採り上げなかったが、百人斬りなど物理的に不可能だ。血糊と刃毀れがあるのでせいぜい2・3人が限度だろう。もし本当に百人も斬れる名刀があれば国宝級の逸品だろうしギネスブックにも申請できるだろう。
 非戦闘員に対する無差別大量殺戮である原爆投下や東京大空襲などの証拠は無数にあるしアメリカもそれを認めている。こんな明白な蛮行を咎めずに証拠の乏しい日本軍の犯罪を騒ぎ立てている人の心理が理解できない。これはアメリカによる歴史の捏造に加担しているだけだ。自国を断罪することが利他的行為であると勘違いをしているのではないだろうか。他者を利するために事実を歪めても構わないと信じるのは奇妙なマゾヒズムだ。精神を病んでいるのではないかとさえ疑う。