俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

慰安婦の日

2014-02-13 10:17:16 | Weblog
 韓国は8月14日を「慰安婦の日」と定めて世界に訴えようとしているらしい。私はこの新しい記念日に賛同して可能な範囲で協力したいと思う。但し私は勝手にこう解釈する。
 野蛮で残酷で、スカトロ趣味の変態日本兵であろうとも、金儲けのために自ら股を広げて受け入れた売春婦が被害者面をしてマスコミに登場したことを記念する日。
 今なお韓国は売春大国だ。国内での規制が厳しくなると出稼ぎにも励むようになった。現在ではロシアと並ぶ二大売春婦輸出大国とまで言われている。売春ほど輸出に好適な商材は少ない。麻薬に匹敵する。利益率は非常に高いし、大半の国では非合法なので現地では納税の義務さえ発生しない。社会へ与える害毒も性病も総て現地で起こり、国内では何の問題も生じない。
 韓国人はなぜか見解の相違を認めない。自分達が絶対に正しくそれに反対する者は異常者だと考える。こんな姿勢は文明人が採るべき態度とは思えない。映画の「羅生門」あるいは小説の「藪の中」で見事に描かれたように、人の見る世界はそれぞれが大いに異なり純粋な客観性はあり得ない。
 人は物自体を知覚することはできない。自分の知覚器官を通じて現象として捕え得るだけだ。現象に解釈が加えられて初めて知識や情報になる。
 同様に事件を正しく知ることは難しい。事件には無数の背景がある。どの背景を重視するかによってその事件は全く違ったものと解釈され得る。
 慰安婦問題にも様々な背景がある。韓国は言論統制によって国内では他の解釈を禁じているが外国人ならどう解釈しても構わない。常識的な解釈に基づいて「慰安婦の日」を考えるなら「国辱の日」だろう。
 もしこんな記念日が韓国側の意向によって定められたなら、我々も8月14日には売春大国韓国の一層の繁栄を祈願して盛大に祝おうではないか。悪意に対しては悪意で応じざるを得ない。悪意を無視すれば更に増長させるだけだ。

報酬

2014-02-13 09:39:05 | Weblog
 結果の平等ほどの悪平等は無い。倫理的な意味ではなく経済性で考えても不合理だ。もし結果の平等が保証されたら社会はサボリ競争になってしまう。労働の質と量が下がるほどコストパフォーマンスが高くなるからだ。口実を作ってサボルほど労働単価は高くなる。そんな社会は成立し得ない。
 しかしその一方で、成果主義によって賃金格差を拡大することはどの程度必要なのだろうか。正当に評価することは必要だ。人は評価されることによって向上するからだ。しかしそれを賃金に直接反映することが唯一の策とは思えない。人は評価されたがるものだ。しかし2倍の成果なら賃金も2倍であるべきだと考える人は殆んどいない。1%の差でも良いのではないだろうか。
 それまで楽しんでいたゲームに報酬を付ければゲームの楽しみが減るという心理実験がある。チンパンジーでさえ一旦エサで釣られると無報酬の遊びを控えるようになるそうだ。賃金で釣ることは人を堕落させかねない。人はもっと誇り高い動物だろう。
 賃金ではなくもっと軽い報酬のほうが却ってやる気を高めるように思う。社内誌での紹介や表彰、あるいは社員食堂での優待など報酬としては小さくても周囲からも分かる形での優待は優越感を満たす。定年の1か月延長権も面白かろう。あくまで権利だから延長する・しないは本人の自由だ。
 貧富の差の大きな社会は不安定になり勝ちなのだから所得格差は極力小さくしたほうが良かろう。働かない人に対するペナルティは必要だろうが、それなりに働こうとする人に対しては手厚くあるべきだ。社会として支援すべきなのは障害や能力不足のために低賃金の仕事にしか就けない人であり、不正受給者などのフリーライダーを許容すべきではない。
 私は報酬と過度に連動する成果主義は日本に禍を招くと思う。日本人は貪欲なアングロサクソンとは違って1円でも多く稼ごうなどとは考えない。生活のために充分な賃金があればそれ以外に必要なのは誇りと称賛だろう。成果に対する報酬を賃金に限定して考える必要は無かろう。