「♪一人の小さな手、何もできないけど♪」本田路津子さんの「ひとりの手」の歌詞だ。この歌の3番を批判する文章を読んだことがある。「♪一人の小さな声、何も言えないけど。それでもみんなの声が集まれば何か言える♪」に対して「たとえ一人であろうとも勇気を持って発言すべきだ」との意見だった。
こういうタテマエを大上段に振り翳されるとウンザリする。政党が典型例だが、一人の声では力が無いからこそ集団を作る。一人で幾ら騒いでも無視されるだけだ。下手をすれば精神病院に強制入院させられる。
権力者であれば一人の力で社会を動かすことができる。大韓航空の会長の馬鹿娘なら航空機の発着の妨害もできようが、私には高校生が乗る自転車1台止めることさえできない。
私は現代の医療は間違っていると確信している。しかし私の如き無名の市井人が幾ら発言しても声にはならない。それどころか良心的な医師が薬の有害性を告発しても、テレビで浅田真央さんと舞さんが「3つのストナ!」と言えば消し飛んでしまう。大企業とマスコミを前にすれば良心的な声など蟷螂の斧に等しい。
一昨日、衆議院選挙があった。投じられた票は総て死に票だ。なぜなら1票差で当選した人は今回も一人もいなかったからだ。どの有権者の1票であれその人の投票によって当落に影響を与えた人は一人もいない。だから1票によって政治を動かせると考えるのは幻想であり自己満足に過ぎない。もし当落を左右した個人がいるとすれば、数十人の認知症の老人に特定の候補者に投票させた人ぐらいだろう。
投票する前から結果が分かっている選挙に投票しても無意味だ。オリンピックではないのだから、参加することに意義があるとは思えない。こんな白黒を付けるだけの投票ではなく、得票数を議員報酬に反映させたらどうだろうか。1票10円とすれば10万票を獲得した議員には100万円が上積みされる。候補者の当落を左右することなどできないのだから、せめて議員の報酬にでも影響を与えたいものだ。このことによって当落のためには死に票にしかならない1票であろうとも少しは意味を持つ。
こんな○×式のような小選挙区制と比べれば、昔の中選挙区制のほうがずっと選ぶ自由があった。有権者に選択の自由が無いから投票率は下がり続ける。公明党と共産党の候補者しかいない選挙区の住民は実質的に選挙権が奪われている。香港の偽りの普通選挙と全く同じだ。
こういうタテマエを大上段に振り翳されるとウンザリする。政党が典型例だが、一人の声では力が無いからこそ集団を作る。一人で幾ら騒いでも無視されるだけだ。下手をすれば精神病院に強制入院させられる。
権力者であれば一人の力で社会を動かすことができる。大韓航空の会長の馬鹿娘なら航空機の発着の妨害もできようが、私には高校生が乗る自転車1台止めることさえできない。
私は現代の医療は間違っていると確信している。しかし私の如き無名の市井人が幾ら発言しても声にはならない。それどころか良心的な医師が薬の有害性を告発しても、テレビで浅田真央さんと舞さんが「3つのストナ!」と言えば消し飛んでしまう。大企業とマスコミを前にすれば良心的な声など蟷螂の斧に等しい。
一昨日、衆議院選挙があった。投じられた票は総て死に票だ。なぜなら1票差で当選した人は今回も一人もいなかったからだ。どの有権者の1票であれその人の投票によって当落に影響を与えた人は一人もいない。だから1票によって政治を動かせると考えるのは幻想であり自己満足に過ぎない。もし当落を左右した個人がいるとすれば、数十人の認知症の老人に特定の候補者に投票させた人ぐらいだろう。
投票する前から結果が分かっている選挙に投票しても無意味だ。オリンピックではないのだから、参加することに意義があるとは思えない。こんな白黒を付けるだけの投票ではなく、得票数を議員報酬に反映させたらどうだろうか。1票10円とすれば10万票を獲得した議員には100万円が上積みされる。候補者の当落を左右することなどできないのだから、せめて議員の報酬にでも影響を与えたいものだ。このことによって当落のためには死に票にしかならない1票であろうとも少しは意味を持つ。
こんな○×式のような小選挙区制と比べれば、昔の中選挙区制のほうがずっと選ぶ自由があった。有権者に選択の自由が無いから投票率は下がり続ける。公明党と共産党の候補者しかいない選挙区の住民は実質的に選挙権が奪われている。香港の偽りの普通選挙と全く同じだ。