俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

精神科医

2014-12-30 10:27:53 | Weblog
 人は自分に関係のあることに関心を持つ。自分が買った宝くじであればその当選番号は大切な情報であり、自分が住む地域以外の天気予報であれば殆んど関心を持てない。
 医師についても同じことが起こり得る。胃腸の弱い人は消化器系に関心を持つだろうし、女性のほうが産婦人科に対する関心が高い。
 では精神科医を選ぶのはどんな人だろうか。多分、人間関係で苦労している人が多かろう。自分自身に性格的欠点があるから精神科を選ぶ。ある精神科医は同業者の多くを「社会性や協調性に欠けるところがある」と酷評している。こんな人に精神科医が勤まるのだろうか?
 勿論、若い頃に神経症的傾向がありそれを克服した医師なら信頼できる。しかし大半の精神科医はそれを克服しないままで医師になっているようだ。もしハゲ頭の医師が育毛に関する講習会を開いても誰もその言葉を信じない。人格に問題のある精神科医は信用できない。
 医学は理系だ。理系の人の欠点は物事を単純化し過ぎることだ。単純な因果関係を好み、複雑で繊細なものを避けようとする。だから最小限の問診で結論を出してしまう。「やる気が起こらない」と言えば鬱病で「物忘れが多い」と言えば認知症だ。マニュアル通りに安易に病名を決めてあとは薬を処方するだけだ。その点、文系出身の臨床心理士のほうが患者の話をしっかり聞いて患者の主観世界を理解しようとする。
 医師は一般に気位が高い。若い内から「先生、先生」と持ち上げられているせいだ。増してや相手が精神病患者であれば、愚痴や妄想に付き合ってなどいられないと考える。とりあえず薬を出してそれが効かなければ別の薬に切り替えれば済むことだ。
 医学に対する過信もある。医学が有効であるのは感染症や栄養障害のような原因が解明された病気に対する原因療法だけだ。対症療法に治療効果は無い。症状を緩和している間に自然治癒力が働いて自力で快復するだけだ。対症療法薬は自然治癒力の妨害をすることさえある。
 精神病の原因は殆んどが分かっていない。だから精神科医は対症療法に頼る。こんな診療だから精神科では医原病患者が増え続けている。軽度の神経症の患者が医師によって精神病者にされてしまう。多分少なからぬ精神科医は抗精神病薬の危険性を理解していない。暴れたり騒いだり徘徊したりする患者を大人しくさせることが治療だと思っている。薬によって鎮静させれば看護や介護をする人にとっては負担の軽減になるだろうが、患者本人は徐々に気力を失って廃人になる。治療という名の元で精神破壊が行われている。

代替品

2014-12-30 09:48:39 | Weblog
 最近、豚の生レバーを食べて病気に罹る人が多いそうだ。牛の生レバーを食べることが禁じられたために代替品として食べられているようだ。牛の代わりに豚を食べることは牛丼・豚丼の例があるように珍しくないが、生の牛の代わりに生の豚を食べることは余りにも非常識だ。豚肉は元々生食には適さない食材であり充分に加熱する必要があるからだ。私は豚シャブでさえ食べようとは思わない。代替品が危険であることは決して珍しくない。
 日本では麻薬も覚醒剤も禁じられている。その代替品として危険ドラッグが出回っている。ところが危険ドラッグは何が使われているか分からない物が少なくない。麻薬や覚醒剤であればどんな毒性があるのか分かっているが、どんな成分なのかさえ分からない危険ドラッグは怖過ぎる。終戦直後、メチルアルコールを飲んで病気になった人がいたが、こんな代替品は頂けない。
 飛行機を怖がる人は電車を使うべきだ。日本の電車は安全だ。特に新幹線は世界一安全な交通手段だろう。飛行機の代わりに自動車を使うのは誤った選択だ。距離当たりでの死亡率は自動車のほうが飛行機よりもずっと高い。
 原因が分かればその原因に対応する原因療法が可能だが、原因が分からなければ対症療法に頼らざるを得ない。しかしこれは代替医療に過ぎない。こんな医療を過信すべきではない。
 人は様々な事情で代替品を求める。世界一高いビール税を嫌う人は発泡酒や第3のビールを飲む。これは賢明な選択だ。不合理なビール税を合法的に節税できるだけではなく、製法が限定されているビールとは違って様々な付加価値が可能だからだ。糖質やプリン体を減らしたりミネラルを添加したりアルコール度数を増減したりすることができる。こうなればただの代替品ではなく健康志向に対応した立派な新商品だ。
 最近、培養肉という画期的な技術が開発された。これは動物の細胞を培養して食肉にするという技術だ。動物を育てるよりも低コストでしかも安全性も高まるということが期待できる。同時に殺生を避けられることも魅力だろう。細胞を培養するだけなのだから、生体の破壊とは全然違う。単なる代替品ではなく食肉革命とさえ言えよう。
 思えば人類は様々な代替品を使っている。当初の石油は石炭の代用品だっただろうし、木や石の代わりにプラスチックが使われている。メールは物を送ることこそできないが通信の迅速性や安全性では郵便より優れているし、プールは海や川より安全だ。生牛の代わりに生豚を食べるような安易で愚劣な代替ではなく、従来品に取って代わるような優れた代替品を開発することが必要だ。