俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

蓮華草

2014-12-28 10:01:24 | Weblog
 昔から「名選手、必ずしも名監督にあらず」と言う。プレ-ヤーとマネージャーでは仕事が違うからだ。同様に優秀な係長が必ずしも課長に相応しい訳ではない。
 係長はプレーヤーのトップであり課長はマネージャーのボトムだから仕事の質が違う。人には適・不適があるものだ。万年係長の中には昇進しないことによって却って良い成果を残せた人もいる。生涯一選手を貫いた名選手のようなものだ。
 係長であれば係の利益を守れば良い。係の仕事を円滑に進めれば充分だ。課長になれば他のセクションとの調整も図らねばならないから求められる資質が異なる。
 ビジネスでの役割分担は多様だ。ノーベル賞受賞者である田中耕一氏は経営者ではなくフェローという立場だ。本人の希望もあってのことだが、田中氏には経営者よりも研究者が似合う。人を優劣という一元論でしか見ない人は社会をピラミッド構造にしたがるがそれでは個々の能力を生かせない。
 アメリカのノードストロームという百貨店には本物のカリスマ販売員がいたそうだ。販売額が桁違いに多いので役員並みの給料を貰っていたそうだ。日本のカリスマ店員とは格が違う。
 不思議な先輩がいた。現場レベルでの仕事は余り得意ではないのだが、全社的な仕事になると途端に能力を発揮する。各セクションの利害を調整することが得意で誰もが納得した。社長にはなれなかったが専務にまで昇進した。
 長嶋茂雄氏は文句なしに名選手だった、しかし迷監督だったと思う。チャンスにこそ力を発揮した長嶋氏には、殆んどの選手がチャンスを迎えれば萎縮するものだということが理解できなかったのだと思う。人には適したポストがある。「やはり野に置け蓮華草」は人を貶める言葉ではなく、適材適所を意味する。

経験的事実

2014-12-28 09:32:35 | Weblog
 経験的事実は必ずしも正しくない。地動説にせよ進化論にせよ経験的事実とは合致しない。だから今でもこれらを否定する人がいる。それは決して宗教的信条からだけではあるまい。経験的事実に背くからこれらを否定するのだろう。
 地球が丸いということは比較的簡単に実感できる。沖へ向かう船を見ていれば下のほうから徐々に見えなくなる。このことだけで地球が平面ではないことが分かる。
 叱る効果も多くの人が経験しているから過信されている。悪い成績が偶然であれば次にはほぼ確実に本来の成績に戻る。このことは確率論を使えば簡単に証明できる。決して叱られたから成績が上がった訳ではないのに叱ったから上がったと誤解される。
 早目のパブロンが効果的な訳ではない。鼻水やくしゃみがあっても風邪とは限らない。一過性の症状で放っておいてもすぐに治る筈のものが、薬のお蔭で治ったと誤解されるだけだ。
 癌の早期発見・早期治療の効果も疑わしい。早期治療によって完治したとされる癌は殆んどが良性腫瘍だ。近藤誠氏はこれを「がんもどき」と名付けた。癌でない腫瘍を幾ら切り取っても癌の予防にはならない。癌であれば早期発見された時点で既に転移しているから完治することは難しい。
 もっと酷いのは健康食品の体験記事だ。「○○で治った」には全く根拠が無い。たまたま治ったことの原因を勝手に特定しているだけだ。因果性は全く無いのだから祈祷やお祓いと同程度の有効性しか無い。
 地上の空間は空気によって満たされている。魚が水の存在を感じないように人は空気の存在を感じない。だからSFのようにテレポーテーション(瞬間移動)が可能であれば、同じ場所に違う物体が同時に存在することになって核反応が起こるのではないだろうか。岩の中に瞬間移動するのと同じことであり即刻死んでしまうだろう。空気の存在は感じないが風の存在なら感じる。しかし実在するのは空気であって風ではない。
 経験的に知り得ることは必ずしも事実ではない。だからこそ人がそれぞれの経験に基づいて主張しても食い違いが生じる。実際に経験したことだから確かだ、と思うのは大きな勘違いだ。人の経験は常に主観的であり客観的ではあり得ない。