俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

切磋琢磨

2015-04-05 09:57:18 | Weblog
 弱い者に勝つよりも強い者に負けたほうがずっと得るものは大きい。自分の弱点を痛感するからだ。錦織圭選手が国内だけで試合をしていればあれほどの名選手にはなれなかっただろう。世界の強豪にコテンパンにやられたからこそ技術を磨き体力を強化したのだろう。
 人は頑張れば届く目標がある時に最も努力する。到達不可能なレベルは目標にならない。このことを最も端的に示しているのは、長距離走には双子のランナーが異常なほどに多いということだろう。自分の能力の限界は分からないものだ。だから他人に負けてもそれを素質の差と考えることが少なくない。ところが一卵性双生児であれば遺伝子は同じだ。先天性が同じであればその差は100%後天的なものだ。つまり練習の質と量および精神力が優劣の決め手になる。兄弟(姉妹)にできて自分にできない筈が無いという思いが双方にあるから切磋琢磨してお互いに能力を高める。双子の兄弟は正に理想的なライバルになる。
 この同じ遺伝子を持つライバル関係は必ずしも常に有効とは限らない。例えば同じチームでエースを争っていれば、この二人による継投は最悪だ。似たタイプどころか殆んど同じ投手による継投策は通用しない。むしろ類似性を生かせるシンクロナイズド・スイミングや新体操などを選んだほうが良かろう。
 瞬発力とは違って持久力を把握することは難しい。100m走の能力であれば走ってみれば分かる。しかし長距離走の能力は走ってみても分からない。どんなペースがベストなのか分からないし、どの程度まで耐えられるのかも分からない。あの名ランナーの君原健二選手でさえ「あの電柱まで頑張ろう」と思って走ったそうだ。持久力を競うレースのタイムは、精神力の強さだけでかなり向上する。
 最も精神力がモノを言う種目だからこそ長距離走には双子の好選手が多いのだろう。切磋琢磨できる環境であれば殆んどの人が実際の結果以上の能力を発揮していただろう。逆に言えば、殆んどの人が切磋琢磨できない環境のために充分に能力を発揮できなかったということだ。

約束

2015-04-05 09:24:24 | Weblog
 約束に当たる英語はpromiseだがpromiseにはそれ以外に「契約」という訳語も当てられている。約束と契約は似て非なるものだ。
 欧米の契約書と比べて日本の契約書は簡潔だ。契約書として書面にしなくてもお互いに約束を守ることが期待されているからだろう。しかし契約と約束には根本的な違いがある。契約すればそれがルールになるが、約束はマナーに過ぎない。契約不履行であれば罰則があるが、約束を破ったことを理由にして相手を罰することはできない。罰則の無い約束が成立するのは相互に信頼関係がありお互いに契約書以上のことを果たすことが暗黙の了解になっているからだ。
 約束を守らない人は信頼されない。しかし様々な事情があってどうしても約束を破らざるを得ないことは起こり得る。これは避けられないことだ。
 昔ベストセラーになった俵万智さんの「サラダ記念日」にこんな句があった。「今我を待たせてしまっている君の 胸の痛みを思って待とう」。待たされる側は辛いが、待たせている側も辛い。好き好んで待たせている訳ではあるまい。待たされる側は被害者意識を持つものだが、待たせる側にも事情がある。
 太宰治の「走れメロス」に描かれたように、約束を果たそうとする姿は美しい。しかし約束が無限責任になり命懸けで守らねばならないようなら重過ぎる。むしろ予め契約として義務を制限したほうが気楽だ。ドライな関係になる。
 その意味で一神教の神は理解し易い。新約聖書や旧約聖書の「約」は契約でありその指示は明快だからすべきこととすべきでないことが簡単に識別できる。むしろ聖典を持たない日本人のほうがずっと大変だ。個々人が相手の心を推し測って、相手が喜ぶことをして、嫌がることを避けねばならない。しかし人は千差万別であり、良かれと思ってしたことがとんだ迷惑になることもあり得る。
 そうなると最も確実なのは約束を守ることだ。約束においては相手の意思が明確に表示されている。外国人と比べて日本人が特に約束を大切にするのは、他の価値が曖昧で相対的であるのに対して、約束は明確で絶対的だからだろう。