つんく♂氏は声帯を摘出して声を失った。歌手でもある彼にとって声を失うことは苦渋の決断だろう。声よりも命を選んだということだ。
筋萎縮性側索硬化症という難病がある。車椅子の物理学者ホーキング博士や徳洲会の徳田虎雄氏などが発病した全身の筋力を失う病気だ。声だけではなく全身の行動の自由まで失う恐ろしい病気だ。
しかしこれら以上に恐ろしいのは知力を失うことだ。知力を失った人間は運転者のいない自動車のようなものであり、どんな暴走をするか分からない。無人の自動車になるよりは自動車であることをやめたいものだ。
時々、頭が思うように働かないと感じることがある。思考が集中せず上手く考えをまとめらなくなる。考えようによってはこれは良いことだ。脳機能の低下を自覚できるほうが自覚できないよりもずっとマシだ。普段から深酒をしては思考力の低下を経験しているからこそ脳の不調が分かるのだろう。酔っていることを自覚できない酔っ払いとは違って、脳の機能低下を自覚できることを喜ぶべきだろう。
脳に大きな外傷を負った人の多くが知力だけではなく人格まで劣化したと言われている。高齢者の多くは認知症を恐れている。自分が自分でなくなり廃人になることは大きな恐怖だ。頭をよく使えば認知症に罹りにくいと言うが当てにならない話だ。歴史に残る天才カントやレーガン元大統領やサッチャー元首相まで認知症に罹るのだから予防は困難だろう。幾ら脳を鍛えても罹る時には罹ると覚悟するしか無かろう。
私はいつも対症療法を批判しているが、こと認知症に限ってはそれでも構わないと思う。勿論、治療できることがベストだがそれができないのであれば一時凌ぎでも構わない。仮に余命が半分になろうとも思考力を維持したいと思う。それどころかたった1時間正常に戻るために命を賭けても構わない。
呆けないように努力することは必要だが罹ってしまえばどう対処すべきだろうか。幸いなことに認知症の症状の軽重には周期性があるらしいから、意識が確かな時に自らケリを付けることが、晩節を汚さないためには必要かも知れない。しかしここで大問題が生じる。意識が確かだと判断する自分の意識を確かな意識であると信じて良いものだろうか?自己評価のパラドクスだ。
筋萎縮性側索硬化症という難病がある。車椅子の物理学者ホーキング博士や徳洲会の徳田虎雄氏などが発病した全身の筋力を失う病気だ。声だけではなく全身の行動の自由まで失う恐ろしい病気だ。
しかしこれら以上に恐ろしいのは知力を失うことだ。知力を失った人間は運転者のいない自動車のようなものであり、どんな暴走をするか分からない。無人の自動車になるよりは自動車であることをやめたいものだ。
時々、頭が思うように働かないと感じることがある。思考が集中せず上手く考えをまとめらなくなる。考えようによってはこれは良いことだ。脳機能の低下を自覚できるほうが自覚できないよりもずっとマシだ。普段から深酒をしては思考力の低下を経験しているからこそ脳の不調が分かるのだろう。酔っていることを自覚できない酔っ払いとは違って、脳の機能低下を自覚できることを喜ぶべきだろう。
脳に大きな外傷を負った人の多くが知力だけではなく人格まで劣化したと言われている。高齢者の多くは認知症を恐れている。自分が自分でなくなり廃人になることは大きな恐怖だ。頭をよく使えば認知症に罹りにくいと言うが当てにならない話だ。歴史に残る天才カントやレーガン元大統領やサッチャー元首相まで認知症に罹るのだから予防は困難だろう。幾ら脳を鍛えても罹る時には罹ると覚悟するしか無かろう。
私はいつも対症療法を批判しているが、こと認知症に限ってはそれでも構わないと思う。勿論、治療できることがベストだがそれができないのであれば一時凌ぎでも構わない。仮に余命が半分になろうとも思考力を維持したいと思う。それどころかたった1時間正常に戻るために命を賭けても構わない。
呆けないように努力することは必要だが罹ってしまえばどう対処すべきだろうか。幸いなことに認知症の症状の軽重には周期性があるらしいから、意識が確かな時に自らケリを付けることが、晩節を汚さないためには必要かも知れない。しかしここで大問題が生じる。意識が確かだと判断する自分の意識を確かな意識であると信じて良いものだろうか?自己評価のパラドクスだ。