俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

戦争

2015-04-24 10:36:45 | Weblog
 日本では県と県との戦争を想像することなどできない。例えば三重県と奈良県が戦争をすることはあり得ない。それは単に軍隊を持っていないからではない。民兵による戦争でさえ想定できない。
 戦国時代には国と国による戦いがあった。しかし国民と国民が戦った訳ではない。権力者が争っただけだ。例えば武田信玄は上杉謙信と戦ったが甲斐の民が信濃の民と戦った訳ではない。戦ったのはあくまで権力者と兵士だ。権力者は領土と領民と領食(糧食)を拡大しようとして戦うが庶民にとっては迷惑なだけだ。このことから大胆な仮説を提示できる。庶民が本当に主権者になれば百害あって一利なしの戦争など無くなるのではないか、ということだ。残念ながらこれは夢物語に過ぎない。
 日本では自治体間での戦争はあり得ないが外国には沢山ある。シリアにはスンニ派地区とシーア派地区とクルド人自治区といったそれぞれが異なる価値観を持った集団があり交戦する。あるいは仏教徒のチベット族やムスリム(イスラム教徒)のウィグル族は儒教徒である漢族とは価値観を共有できない。インドからはパキスタンとバングラディシュが独立したが今尚、ヒンズー教徒とは妥協し難いムスリムが居住している。クリミアや東ウクライナであれば宗教対立ではなくイデオロギー対立とされているが本当はどうなのだろうか。
 結局、価値観を共有できない「異分子」は分離せざるを得ないということだろう。少数者を多数者に従わせようとしても内紛を招くだけだ。使い古された言葉だが「民族自決」が選ばれるべきだろう。
 戦争方法も軍隊同士の戦いでは済まなくなり、第一次世界大戦以降は悲惨な総力戦に変わった。それ以前の戦争、例えば日清戦争や日露戦争は軍隊同士での戦争だった。しかし日中戦争や日米戦争になると訳が分からなくなる。日中戦争の相手は中華民国軍なのか軍閥なのかはたまたゲリラか共産党なのかよく分からない。三竦み・四竦みになってしまった。日米戦争では日本側は米軍と闘っているつもりだったが、米軍は日本人総てを敵と考えたようで、東京・大阪などの非戦闘員に対して無差別爆撃をしたし、長崎・広島への原爆投下は核実験だけではなく許し難い人体実験も兼ねていただろう。
 アメリカの戦争には無差別攻撃が付き纏う。ベトナム戦争での北爆は常軌を逸したものと思えるし、朝鮮戦争でマッカーサーが総司令官を解任されたのは中国へ原爆攻撃をしようとしたからだと言われている。国民国家は戦闘員と非戦闘員を区別するが、人工国家のアメリカにはそんな常識は通用しないようだ。
 日本に戦国時代があったのは日本が統一されていなかったからだ。徳川幕府の時代は世界に類例を見ないほどの平和な時代だった。軍隊は不要になり治安も安定した。
 もし世界が理想を共有する地球国になれば、県と県が戦わないように、戦争の無い社会が生まれ得る。EUが成立したのも第二次世界大戦に対する反省に基いている。
 しかしそんなことが可能なのは理想を共有できた場合に限られる。価値観を共有できなければ同朋たり得ない。アラブ諸国での宗派対立や中国での民族対立を見れば、平和は余りにも困難な目標と考えざるを得ない。

共歓

2015-04-24 09:45:48 | Weblog
 思想形成において私に最も影響を与えたのは①手塚治虫②ドストエフスキー③ニーチェだと思っている。そのニーチェに反論しようと思う。
 ニーチェは群居本能を嫌った。羊飼いを評価して畜群を憎んだ。私は逆に群居本能こそ人間の長所だと考える。群居本能とは善良さであり素直さだ。従順な畜群が誤った方向に向かうことの責任は100%羊飼いにある。憎むべきなのはこの羊飼いだ。世論操作によって善良な羊を欺こうとする朝日新聞のような大嘘つきの「マスゴミ」こそ不俱戴天の宿敵だ。
 群居動物は優しい。他の動物とも共存共栄を図ろうとする。しかし羊飼いは違う。他の集団を排斥する。
 実存主義の「実存」とは自覚存在を意味する。sein(ある)ではなくexist(存在する)という意味だ。単にそこにいるのではなく問題意識を持って生きるべきだ、という意味だろう。
 私自身、他者と異なる自分を重視していた。独立した自我の確立こそあるべき姿だと信じていた。それに疑いを持たせて共存に目覚めさせたのが他ならぬニーチェのこの言葉だった。「蛇は相手が痛がると知っているから噛む。」私には強烈な衝撃を与えた言葉だが、残念ながら余り知られていないので正確に引用する。
 「喜びを共にすること。・・・・我々を噛む蛇は我々に苦痛を与えたと思って喜ぶ。最も下等な動物も他人の苦痛を想像することができる。しかし他人の喜びを想像して喜ぶということは最高の動物の最高の特権であり、その中でも最も選り抜きの模範的な者にのみなし得る。・・・・従ってこれは1つの稀な人間精神だ。だから喜びを共にすることを否定した哲学者もいたほどだ。」(「人間的、余りに人間的」「様々な意見と箴言」62)
 「最も選り抜きの模範的な者」どころかニーチェが嫌った「畜群」は皆この能力を備えている。だからこそ群居生活が心地良い。この能力を歪め悪用しようとする悪しき羊飼いこそ糾弾されるべきだ。
 ニーチェは体系哲学者ではなく良い意味での混沌だ。テーゼもアンチテーゼも剥き出しにされている。ニーチェ批判の鍵はニーチェ自身が書き残している。
 共感こそ群居動物の特長だ。そしてネガティブな「同情」ではなく「共歓」こそ大切だ。同情することによって不幸が増幅されるが、共歓すれば幸福感が高まる。群居動物の脳には他者の行動に共感するミラーニューロンが備わっているらしい。脳のこの特性を同情などに無駄遣いすることなく共歓力として活かしたいものだ。