俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

医療

2015-04-20 10:24:23 | Weblog
 私はカントによって独断の微睡みから覚醒した。それまでは理性の力を無限と考えていた。理性は一瞬にして無限の彼方や過去・未来へと飛翔できる神通力であり、理性によって時間と空間を超越できると信じていた。しかしこれはとんでもない思い上がりだった。お釈迦の手の平から飛び立つことさえできない孫悟空のように無力であることを教えられた。全面的に経験に依存する理性では経験を超えられないことが「二律背反」によって明らかにされた。経験を越えようとしても矛盾に陥るだけだ。
 哲学は理性の限界を知ることから始まる。できることに全力を注ぐことと、できないことについてはどこまでなら可能なのかを知ることが重要だ。医学もそうあるべきだろう。できないことをできると信じるべきではない。
 抗生物質は多くの病原菌に対して有効だが病原ウイルスに対しては無効だ。ウィルスは細胞を持たないからだ。そもそもウィルスは生命体かどうかさえよく分からない。増殖するのだから生命体なのだろうが生きているのか死んでいるのかさえ曖昧だ。
 細菌による感染症であれば治療は可能だが、ウィルスによる感染症の治療は現時点では不可能だ。元々備わっている免疫力だけが頼りだ。だからエボラ出血熱の治療は点滴だけだ。点滴によって体力を回復させて免疫力による治癒を支援することしかできない。
 風邪もインフルエンザもウィルスが原因だから治療できないが免疫力によって自然治癒する。対ウィルス戦においては免疫力だけが戦力であってその支援以上のことはできない。
 対細菌戦でも人類が勝った訳ではない。抗生物質による攻撃に対して細菌は耐性菌へと進化し続けている。抗生物質の開発よりも細菌の進化のほうが早いから極めて分の悪い戦いだ。病原体に勝てるという思い上がりが人類を滅ぼしかねない。
 勿論未来永劫人類が病原体に勝てないという訳ではあるまい。あくまで現時点では勝てそうにないということだ。勝てない間は負けないための努力が最重要だ。つまり免疫の邪魔をしないということと、感染しない・させないために最大限の努力をするということだ。それ以上のことを望めば無駄で有害な医療、つまり偽医療になってしまう。

群居動物

2015-04-20 09:48:57 | Weblog
 布団の中で突然妙なことを考えた。社会契約論は根本的に間違っているのではないだろうか、と。人は自然状態に逆らって社会を作るのではなく、自然な欲求に基づいて社会を作るのではないだろうか。なぜなら人類は群居動物だからだ。
 犬が人類の友であるのは犬が群居動物だからだ。群居動物同士だから相性が良い。
 人類はホモ・サピエンスに進化するずっと以前、猿人や原人の時代から群居生活を続けていた。単独でも生きられるゴリラとは違って人類は余りにも弱かったから群居生活をしなければ食料を得ることさえできなかった。当初は「必要」であった群居生活がやがて「本能」に組み込まれた。農業を知って他の動物のテリトリーに入る必要が無くなって初めて独居も可能な動物になった。
 群居動物の変種が独居動物であり、独居動物が集まって群居動物になった訳ではない。海の一部が波飛沫であって波飛沫が集まって海になった訳ではない。
 元々群居動物である人類は社会を作るために契約などしない。本能的に群居するだけだ。人が犯罪者を憎むのは契約を破ったからではない。快適な群居生活を脅かすからだ。群居生活を一層快適にするためであれば自己を縛ることさえ厭わないのは本質的に群居動物だからだ。群の中では価値観が共有されており、契約が必要になるのは群の外と繋がらねばならない場合だけだ。
 人が道徳を好むのは快適に群居することが第一原理として潜在しているからだ。群居するために好ましいことを人は善と呼んで高く評価する。人間にとっての第一原理は、自分の欲望を満たすことではなく、快適な群居生活を営みたい、ということではないだろうか。だからこそ他人のために自分の欲望を制御できる。性愛においてさえ人は自分だけの快楽を求める訳ではない。相手が悦ぶことによってその快感は増加する。
 江戸時代までの日本人は典型的な群居動物だった。我よりも先に我々があった。だからこそ明治時代には西洋的な自我の確立が国民的課題となった。
 猫や象は死期を悟ると仲間から離れて秘かに死を迎えると言う。人類は徹頭徹尾群居動物だから死ぬ時でさえ仲間と一緒に迎えようとする。
 ホッブズからロックを経てルソーへと至る社会契約論に日本人の大半が違和感を覚えるのではないだろうか。これはキリスト教文化が生んだ妄想だろう。神は群の外にいるから神と繋がるためには契約が必要だった。神と人との契約という神話の延長として社会との契約や黙約という虚構が作られたのではないだろうか。人類とは契約する動物ではなく単に本能的に群居を好む動物に過ぎない。哲学者は群居が苦手な人が大半だったから社会性を特異なものと考えたが、共感や連帯は自然な感情であり、個別化こそ本能に背く特殊なあり方なのではないだろうか。