なぜ岐阜県に護国神社が3つある?
この疑問を持った自分は、まあまあの神社マニアになったということかな。
実は、この件について長年疑問に思っていた割には、深く追求しなかったんだ。
まあ千葉県にも護国神社が2つあるのだけど、千葉県護国神社のほかに指定外護国神社として四街道市の小さな公園の片隅にあるという感じで、大臣指定護国神社のつくりとは程遠いが、複数存在していてもさほど気にしていなかった。
ところが、岐阜県にはガッツリ大きい神社が3つもある。
岐阜県の場合は自分も訪れたことのある「岐阜護国神社」のほか、大垣市にある濃飛護国神社がいわゆる指定護国神社に相当するらしい。(岐阜護国神社は、濃飛護国神社よりもだいぶ後に指定されることになるのだけど・・・)
ポイントなのは各都道府県に1つ程度ある護国神社は、原則として○○県護国神社とか府県名が入ることが多い。
そこでご存じのとおり、岐阜にある3つの護国神社には、どれも「県」が入っていない。
これは、ウィキペディアで護国神社と引けば、各県に1つ程度しか護国神社がない理由は分かる。
以下、そのウィキペディアから引用した一文だ。
明治時代に日本各地に設立された招魂社が、1939年(昭和14年)の内務省令によって一斉に改称したものをいう。
おおむね各府県につき1社を府県社に相当する内務大臣指定護国神社とし、それ以外を村社に相当する指定外護国神社とした。
要は、日本全国各所にあったであろう護国神社(招魂社)が、法令等によって各府県に1つ程度にされたわけだ。
そこで、1つ程度とされているところを3つもある岐阜県は、やはり謎なのだ。
この理由は、飛騨護国神社のHPに事細かに丁寧に記載されていたので、ぜひ紹介させてほしい。
(自分もこれを読んでやっとスッキリしたんだ)。
ひとことでいえば、「飛騨護国神社側の類まれなる努力によって存続がなされた神社」ということなのだが、読めば読むほど深い背景があるということかな。
是非、そんな貴方もご一読ください。
(以下、飛騨護国神社HPより抜粋・引用しました。)
岐阜県の護国神社について(飛騨護国神社について)
昭和14年の護国神社令(内務省令第12号)を受けて、「1県1社」を目安に全国にある招魂社の整理が行われましたが 岐阜県には当神社を含め、明治2年創建の「濃飛護國神社」、昭和15年創建の「岐阜護國神社」の3社が鎮座しています。
濃飛護國神社は明治4年「官祭招魂社」に指定され、後に「内務大臣指定護国神社」となります。
御祭神は西濃地区出身英霊。 岐阜護國神社は護国神社令を受けて創建され、竣工と同時に「指定」に、戦後は「別表神社」となりました。
御祭神は中・東濃地区出身英霊。
飛騨護國神社は「私祭招魂社」として創立し「指定外」の護国神社となります。
西濃地区は、尊皇派として戊辰の役で大活躍をした大垣藩が中心となり早い段階から慰霊祭・招魂祭が行われていました。
大垣招魂社は県下唯一の官祭招魂社であり、昭和14年までは県全域の戦歿者を祀る招魂社の中心でした。
3社併存の理由は、軍人(陸軍歩兵聯隊)の配属先に関係しているとも言われています。
同じ岐阜県でも、地域によって所属する部隊が違ったので、それぞれに招魂社・護国神社の設立が望まれました。
「護国神社令」の施行に先立ち、岐阜県は既存の招魂社2社を廃して岐阜市に1県1社の護国神社を設立する意向を固めます。
これは岐阜聯隊に関係する慰霊施設が無かったたため、市内に護国神社を設立することは岐阜の人々の宿願でもありました。
ところが大垣招魂社は、貴族院議員の旧大垣藩主 戸田伯爵の尽力により「岐阜縣招魂社」として存続に成功します。
県は、岐阜護國神社と岐阜縣護國神社では神社名が類似する為、飛騨を吸収合併する前提で「濃飛護國神社」として認可しました。
岐阜県に護国神社2社の設置が決定したのが、昭和14年3月26日のことでした。
しかし、飛騨招魂社廃祀の計画については飛騨の各市町村に一切知らされておらず、まさに寝耳に水の出来事でした。
飛騨全市町村・軍人会・遺族会などから存続の願いを一心に背負った神社職員と市の担当職員は、 当時、飛騨軍人の配属先でもあった富山聯隊へ直訴を決行致します。(飛騨は昭和15年より岐阜聯隊へ配属となります)
そして、富山県庁にて富山縣招魂社の手続き一切を閲覧させてもらい、徹夜で申請書を作成。 事実上の提出期限だった3月29日に無理やり岐阜県庁へ提出することに成功致しました。
廃祀が決まっていた飛騨招魂社の土俵際の「やんちゃ」に、受け付けた県職員たちの態度はとても冷ややかだったということです。
「護国神社令」施行の4月1日以降は、必然的に祭神地域が分けられて3社が共存できるよう形が整っていきました。
当神社は旧飛騨國内の戦歿者をお祀りしている為、岐阜県内においては指定護国神社2社に準ずる扱いとなりました。
また戦後、GHQ対策として昭和21年11月に第1回全国指定護国神社宮司会が開催されていますが、 当神社は27年の第5回宮司会(第1回浦安会)より参加が認められ、全国護国神社会の末席に名を連ねることとなりました。
昭和35年、靖國神社の「終戦15周年合祀概了奉告臨時大祭」斎行にあたり、 皇室より格別の思し召しをもって、全国の旧指定護国神社にも幣帛料の御供進が決まりました。
宮内庁から岐阜県神社庁に飛騨護国神社が指定外である旨の問い合わせがありましたが 神社庁は当神社の経緯を説明して特別に御下賜が許されました。
昭和35年8月26日、岐阜県からは3社の宮司が参内して幣帛料を拝受致します。
この御下賜によって当神社(飛騨護国神社)は指定外の護国神社でありながら、全国護国神社52社中の1つに加えられることとなり 「岐阜県は護国神社3社を奉斎する」ということが名実共に公認されることとなりました。
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