8703の部屋

「ハナマルサンの部屋」です。音楽、スポーツ 世相 等々 気ままに綴ります

わが合唱歴⑥~岩見沢東高校で15年~5.

2011-10-19 16:13:32 | 合唱
新入部員獲得に関して、私が生徒に時々話していたことがいくつかある。(1)誘う時は、自分たちの活動に自信と確信と誇りを持って話すこと。(2)尊敬する先輩がいるところには後輩が来る。ゆえに、尊敬される先輩であれ!(3)自分の進路に向けた努力も怠るな!浪人ばかり輩出していては部員は増えない。(4)魅力のある活動をしている部には人が集まる。そして、「部員一人ひとりが一人の新人を連れて来ると、一挙に倍増になるぞ!」などとけしかけていたものである。能力的にも人間的にも比較的優れた生徒集団が、やりがいを感じ、やる気に満ちて活動を始めれば成果は上がるはずで、部員は増える、コンクールでは良い成績を上げる、定演には人が集まる、と良い方向に向かいつつ15年を終えることができた。

ただ、全てが順風満帆であったかと言えば、そんなことはありえないことで、一部の父兄からは「合唱部は顧問のやらせだ!」とか「合唱部でがんばれば、子どもの将来を保障してくれるのか?」などといった声も聞こえて来た。また、一部教職員からは「合唱部は簡単に全道、全国へ行けるので何らかの規制を設けるべきだ!」とか「全国コンクールには3年に一度行くことにして、連続の場合は辞退すべきだ!」などと言った指摘を受けたこともあり、おかげで、顧問が十二指腸潰瘍を患ったこともあった。しかし、総体的には、良き生徒、良き父兄、良き同僚に恵まれての岩見沢東高校での15年間は、まさしく校歌のとおり「この学園(その)はわが魂の故郷なり」と思っている。
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わが合唱歴⑥~岩見沢東高校で15年~4.

2011-10-19 08:14:10 | 合唱
合唱部は毎年、部長を中心にしてとても真面目な活動を続けていた。しかし、なかなか部員数が増加しないという悩みを抱えていた。そのような中で、私が赴任して3年目の1973(昭和48)年、当時の3年生(部長出口敬智君)と相談して校内発表会(定期演奏会)を企画した。この頃は、部活動として外部施設を利用することが認められていなかったので校内での演奏会を行い、市内の中学生を招待するという催しであった。演奏会終了後には交流会も行っていた。自分たちの活動を対外的に発表する機会が少なかったので、この企画は斬新であり効果的であった。合わせて、日常的に部員一人ひとりが後輩に声を掛けて岩東合唱部のPRをする、などの努力が実ってようやく部員が30名を超えることが出来た。そして、1974(昭和49)年には卒業した旧部長(大嶋恵人君や小沼聖一君)を中心にOB会結成の動きが起こり、現役との合同演奏会の開催へと加速して行った。最大の目的は、現役への支援であった。前述の通り、現役単独では困難であった外部での公演を、OB会主催で実現しようとする具体的目標を持っていたのである。

そして、1975(昭和50)年8月、岩見沢市民会館において「第一回 岩東合唱部同OB会合同演奏会」が行われた。以来30数年、この演奏会は欠かすことなく続いている。やがて、現役単独の定期演奏会も市民会館での開催が可能となり、合唱部の活動が一般公開されるようになった。部員数は着実に増加し、「岩東合唱部を目標にして入試に臨む中学生がいる」といった嬉しい声を近隣の中学校の先生から聞くこともあった。毎年、10人くらいづつ増える部員が、ついに80名を超えた年があった(1980年84名)。私の在任中では、これが最高数であったが、当時の全校生が約800人であったので、合唱部員が全校生の一割を超えたと話題になった。その後も、常時60~70人の部員とともに合唱を続けることが出来た。私にとっては「幸せ過ぎる15年」であったと思っている。
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