海外の小説を読む時、僕は「訳者」が気になります。僕の中での名訳は、「井伏鱒二」の「ドリトル先生シリーズ」、そして、「南洋一郎」の「ルパンシリーズ」です。井伏鱒二さんの訳は、さすがに小説家だけあって、ちゃんと「日本語」になっていて、子供だった僕が読んでも外国文学とは思えないほどの名訳でした。「首が前と後に首がついた動物」を「オシツオサレツ」と訳したり(英語の原本を見るとビックリします)、大胆かつ繊細な、読む子供への配慮が文章になされています。井伏鱒二さんは、若い人は御存知ないかもしれませんが、広島の原爆の話を書いた「黒い雨」(今村昌平監督で映画化)などを執筆された有名な作家です。一方の南洋一郎は、戦中「敵中横断三千里」(黒澤明が脚本化)などの「少年倶楽部」に載る様な、少年小説を書いた小説家です。やはり、きっちり日本語になっています。アガサ・クリスティーでは、大久保康雄の訳が個人的には好きです。この人は「風と共に去りぬ」も訳された翻訳家です。僕の好きな作家で言うと、エラリー・クィーンは、「国名シリーズ」などの井上勇(創元推理文庫に多い)、エドカー・ライス・バローズ(「ターザン」の原作者です)は、「火星シリーズ」などの厚木淳さんです。僕がダメだったのが、堀口大學訳の「ルパン」でした。文章が格調高すぎて、読んでいて疲れてしまいました。「訳」によって、これだけ違うものか、というのは、違う出版社から出ている同じ小説の1ページ目を読むと分かります。偉そうな事を言いますが、「日本語」ができての「訳」なのです。





