メールというのは、難しい。簡単にいうと、「会話」と違って、「書き言葉」、しかも「手書き」ではない活字の文章が「否応なしに」届けられるからだ。それで、ブログを始めて、「能動的伝達」を「受動的伝達」に変えたのだが。今までは、「エンタティメントメール」と言って、感動した映画を観た時、感銘を受けた本を読んだ時、BCCで情報を発信していたのだが、昨夜送った人の中の、一人の女性から今日、「こんなメールは送らないで下さい」という返事が返ってきた。ブログを始めたのだが、あまりにも面白い映画を観たので、思わず、知っている人にメールで教えようと送った結果だ。「こんなメールは送らないで下さい」とメールの文章で返されると、「こんな」情報で悪かったのか、「人の生活」に土足で「メールという手段」を使って勝手に入ってくるな!という事なのか、たぶん後者だと思うが、凄く傷ついた。とても哀しかった。そして、勝手な「怒り」を覚えた。ほんとに利己主義なのだけれど。でも、相手の立場に立ってみれば、「自分の快適な生活」の中に、「自分と関係の無い情報」が飛び込んでくるのだから、不快だったのだろう。「僕のメール」と「ダイレクトな広告メール」との違いはないのだろう、彼女にとっては。「電話」でもなく、「手紙」でも無い、「メール」という新しい「伝達媒体」に、僕を含め、人間が慣れていないせいかもしれない。
何もかもが「フタ」をされてしまった時代。それが今。昭和40年代頃までは、都会にも、「ドブ」があり、「田んぼ」があり、「畑」があった。大阪の神崎川を阪神電車で渡る時は、「錆びた鉄」の臭いがした。馬糞の山が家の近くの畑の端に積まれ、鼻をふさがないといけない悪臭を発していた。「貧乏人」も「傷痍軍人」も「頭がおかしい子」も、みんなと一緒に歩いていた。生きていた。「ドブ」に「フタ」をするという発想が「汚いもの、見たくない・見せたくないもの」を囲い込み、どこかに隠した。一見、社会は健全に見えるが、その悪弊が今、出てきているのではないだろうか。「見栄えの良い食べ物」より、「そうでない食べ物」の方が美味しい事が多い、と渡辺文雄さんの本に書いてあったような気がする。その「フタ」が今、飽和して、外れようとしている。僕にはそう感じる。飛び出して暴れてくれ!と応援したくなる。フレフレと旗を振りたくなる。そんな「不安定」な気持ちである。
「チョン・ジョヒョン」(「僕の彼女を紹介します」など)で、「ホワイト・バレンタイン」を借りて見ました。僕はダメでした。「ハト」に手紙をつけて、恋をする二人の話なのですが、脚本がスカスカなのか、演出が淡すぎるのか、はたまた「チョン・ジョヒョン」が若すぎて(デビュー作)、後年の色気がないのか・・・。ちょっとがっかり。「イルマーレ」の方が二回も見たのに、良かったのは何故?映画は総合芸術ですね。
「おコタ」という言葉がある。もちろん、「コタツ」の事であるが、言葉の響きが暖かい。昔の家には、必ず「おコタ」があった。うちのおじいさんの家には「掘りごたつ」があり、中で、多分「炭か練炭」が燃えていた。隙間風の吹く、昔の日本家屋だったので、一酸化中毒の心配もなかった。僕は、足を入れると火傷するのではないかと、ビクビクしながら、「掘りごたつ」に入っていた。
大学時代は、友達の下宿の「コタツ」で、深夜、或いは早朝まで麻雀をし、そのまま後ろに倒れて、布団に包まり、惰眠をむさぼっていた。
子供の頃は、「コタツ」の中に、隠れるのが好きで、あの「密室感」がたまらなかった。ときどき、「アチチ!」と赤外線?の出ているランプに体が当たって、「コタツ」から跳び出したりもした。「コタツ」の上には「みかんの山」が似合う。ダラーっとしながら、みかんを食べ、テレビを見ているという幸せもあったのだ。
大学時代は、友達の下宿の「コタツ」で、深夜、或いは早朝まで麻雀をし、そのまま後ろに倒れて、布団に包まり、惰眠をむさぼっていた。
子供の頃は、「コタツ」の中に、隠れるのが好きで、あの「密室感」がたまらなかった。ときどき、「アチチ!」と赤外線?の出ているランプに体が当たって、「コタツ」から跳び出したりもした。「コタツ」の上には「みかんの山」が似合う。ダラーっとしながら、みかんを食べ、テレビを見ているという幸せもあったのだ。