昔、午前中に、子供番組が多かった様な気がする。何故だろう。「おはよう!子供ショー」「ロンパールーム」・・・当時は幼稚園に行かず、義務教育の小学校からの子供が多かったのだろうか。「水っぱな」を出している子供もいた。子供がたくさんいた。小学校は、教室に入りきれないので、校庭にプレハブで教室を作って、一学年、8クラス位あって、当然だった。今の小学校は、多くて、一学年、2クラスが精々だ。子供が外で遊んでいる姿を見ない。話題は大きく跳んで、オーストラリア映画「マッドマックス」の予告編を見ていたら、車がクラッシュし、「スタントマン二名死亡」とスーパーが出て、予告編の最後に「撮影快調!」と大きくスーパーが出たのには、驚いた。映画館で映画を見るのが好きなのは、映画の予告編を見れるからだ。「未来惑星ザルドス」とかは、鮮明に憶えている。それと、「20世紀FOX」とか「CIC→今のUIP」のマークを見るのも大好きだった。「タワーリング・インフェルノ」という映画がある。パニック映画の走りだ。この映画は、当初、「ワーナー・ブラザーズ」と「20世紀FOX」が、偶然、別々に高層ビルの火災の映画を企画していて、一本の映画にする事になり、「タワーリング・インフェルノ」が出来上がったのです。僕は、すごくマニアックな事ですが、この映画が上映される時、どちらの会社のマークが出るか、興味深々でした。出たのは、「ワーナー・ブラザーズ」のマーク。アメリカ国内が「20世紀FOX」で、海外配給が「ワーナー・ブラザーズ」だったのです。スーパークレジットは、「ワーナー・ブラザーズ」and「20世紀FOX」と、「ワーナー」が上になっていました。主演が、スティーブ・マックィーンとポール・ニューマンだったのですが、確か、どちらかが「左下」、もう一方が「右上」に出るというダブルスーパーで、同格に見える様にしていました。
昨年、夢路いとしさんが亡くなられました。「いとし・こいし」の漫才は、何度聴いても、笑えるものでした。アクションもなく、「しゃべくり」だけで、「お客さんの笑いを引き出す」のは、「芸」であり、天才だったと思います。正月に大阪に帰っていて、「中田カウス・ボタン」の漫才をテレビで見たのですが、最高ですね。もちろん、僕は若手の漫才師をすべて見ている訳では無いので、こんな事は違う事かもしれませんが、今の漫才師は、「現代社会の一部をオリジナルの切り口」で喋って、笑いをとっているようですが、やはり、普遍的な出来事で、漫才が出来るというのが、僕は「芸」だと思うのです。ビデオにも出ていますが、カウス・ボタンの師匠、中田ダイマル・ラケットの漫才は絶品です。相方が自殺する前の「Wヤング」、「オール阪神・巨人」、それぞれ面白いのですが、何故か、それより、年配だったダイラケが好きです。「間」の取り方やリズム感が上手いのでしょうね。別の意味では、「横山ホットブラザーズ」や「いま寛太・寛大」の「マンネリズムの中の、待ってましたという笑い」も好きです。それと、何のギャグも持ってないのに、存在そのものが可笑しい「花紀京」さんは大好きです。花紀さんとは、深夜のレギュラー番組を一年半やらして頂き、その後、数年経ってから、単発のドラマに出演をお願いし、スタジオ収録が終わって変えられる時、僕に向かって、「○○ちゃん、太ったんちゃう。もっと、やせた方がいいよ」と優しい言葉をかけて頂いた事が鮮明に記憶に残っています。
「007」シリーズには転機があります。「007/黄金銃を持つ男」と「007/私を愛したスパイ」の間です。「黄金銃」までは、プロデューサーに二人の人物が名前を連ねていました。アルバート・R・ブロッコリとハリー・サルツマンです。007の第一作「007/ドクター・ノー(公開時は、殺しの番号)」を製作するにあたり、原作者のイアン・フレミングの出した条件は、プロデューサーにハリー・サルツマンを入れる事でした。そのサルツマンが製作から離れたのが「007/私を愛したスパイ」なのです。少し、荒唐無稽のきらいはありますが、あの「ジョーズ」が出てきたり、パロディーやユーモアがあったりと、かなり前作とテイストが変わっています。僕はこの作品が007の中で、いちばん好きです。ロジャー・ムーアも自分が出た中ではこの映画がベスト1なのだそうです。バランスが良く取れ、テンポも良いのです。あの「フレンズ」を撮った「ルイス・ギルバート監督」が撮ったとは意外です。この後は最悪の「007/ムーンレイカー」があり、「007/ユア・アイズ・オンリー」を除き、シリーズの面白さは無くなっていきます。映画「007」のエンドロールには、「次は・・・で会いましょう」と英語で書かれた呼びかけがついていて、胸をドキドキさせて見たものです。今は、アルバート・R・ブロッコリも亡くなり、娘とその夫がシリーズを引き継いでいます。
生年 ■ 1927/06/27
出身地 ■ アメリカ/ニューヨーク市ブルックリン
■本名はMelvin Kaminsky。弾き語り、舞台を経て、テレビ・ショーのギャグ作家になる。その後、TVシリーズ“それ行けスマート”の台本を経て、映画の脚本も手掛けるようになる。68年の「プロデューサーズ」で監督デビューを果たす。その後は「ヤング・フランケンシュタイン」、「新サイコ」、「スペースボール」、「レスリー・ニールセンのドラキュラ」など有名作品のパロディを得意とした。製作作品としては、「エレファント・マン」や「ザ・フライ」などがある。64年に女優のアン・バンクロフトと再婚した。
関連人物
アン・バンクロフト 妻
[001] ■ ロボッツ(2005) Anime 声の出演
[002] ■ マペットのメリー・クリスマス<TVM>(2002) 声の出演
[003] ■ メル・ブルックスのイタリア珍道中(1999) 出演
[004] ■ ナイト・ピープル<TVM>(1997) 出演
[005] ■ レスリー・ニールセンの ドラキュラ(1995) 監督/製作/脚本/出演
[006] ■ ちびっこギャング<未>(1994) 出演
[007] ■ ロビン・フッド/キング・オブ・タイツ(1993) 監督/製作/脚本/出演
[008] ■ バーグラント<未>(1992) 製作総指揮
[009] ■ メル・ブルックス/逆転人生(1991) 監督/製作/原案/脚本/出演
[010] ■ リトル★ダイナマイツ/ベイビー・トークTOO(1990) 声の出演
[011] ■ スペースボール(1987) 監督/製作/脚本/出演
[012] ■ ザ・フライ(1986) 製作総指揮
[013] ■ 太陽の7人(1986) 製作総指揮
[014] ■ チャーリング・クロス街84番地<未>(1986) 製作
[015] ■ 贖われた7ポンドの死体<未>(1985) 製作総指揮
[016] ■ メル・ブルックスの大脱走(1983) 製作/出演
[017] ■ メル・ブルックス/珍説世界史PARTⅠ(1981) 監督/製作/脚本/音楽/出演
[018] ■ エレファント・マン(1980) 製作総指揮
[019] ■ 0086笑いの番号(1980) 原作
[020] ■ マペットの夢みるハリウッド<未>(1979) 出演
[021] ■ メル・ブルックス/新サイコ(1977) 監督/製作/脚本/出演
[022] ■ サイレント・ムービー(1976) 監督/脚本/出演
[023] ■ ブレージングサドル(1974) 監督/脚本/作詞
[024] ■ ヤング・フランケンシュタイン(1974) 監督/脚本
[025] ■ メル・ブルックスの命がけ!イス取り大合戦<未>(1970) 監督/脚本/出演
[026] ■ プロデューサーズ(1968) 監督/脚本
出身地 ■ アメリカ/ニューヨーク市ブルックリン
■本名はMelvin Kaminsky。弾き語り、舞台を経て、テレビ・ショーのギャグ作家になる。その後、TVシリーズ“それ行けスマート”の台本を経て、映画の脚本も手掛けるようになる。68年の「プロデューサーズ」で監督デビューを果たす。その後は「ヤング・フランケンシュタイン」、「新サイコ」、「スペースボール」、「レスリー・ニールセンのドラキュラ」など有名作品のパロディを得意とした。製作作品としては、「エレファント・マン」や「ザ・フライ」などがある。64年に女優のアン・バンクロフトと再婚した。
関連人物
アン・バンクロフト 妻
[001] ■ ロボッツ(2005) Anime 声の出演
[002] ■ マペットのメリー・クリスマス<TVM>(2002) 声の出演
[003] ■ メル・ブルックスのイタリア珍道中(1999) 出演
[004] ■ ナイト・ピープル<TVM>(1997) 出演
[005] ■ レスリー・ニールセンの ドラキュラ(1995) 監督/製作/脚本/出演
[006] ■ ちびっこギャング<未>(1994) 出演
[007] ■ ロビン・フッド/キング・オブ・タイツ(1993) 監督/製作/脚本/出演
[008] ■ バーグラント<未>(1992) 製作総指揮
[009] ■ メル・ブルックス/逆転人生(1991) 監督/製作/原案/脚本/出演
[010] ■ リトル★ダイナマイツ/ベイビー・トークTOO(1990) 声の出演
[011] ■ スペースボール(1987) 監督/製作/脚本/出演
[012] ■ ザ・フライ(1986) 製作総指揮
[013] ■ 太陽の7人(1986) 製作総指揮
[014] ■ チャーリング・クロス街84番地<未>(1986) 製作
[015] ■ 贖われた7ポンドの死体<未>(1985) 製作総指揮
[016] ■ メル・ブルックスの大脱走(1983) 製作/出演
[017] ■ メル・ブルックス/珍説世界史PARTⅠ(1981) 監督/製作/脚本/音楽/出演
[018] ■ エレファント・マン(1980) 製作総指揮
[019] ■ 0086笑いの番号(1980) 原作
[020] ■ マペットの夢みるハリウッド<未>(1979) 出演
[021] ■ メル・ブルックス/新サイコ(1977) 監督/製作/脚本/出演
[022] ■ サイレント・ムービー(1976) 監督/脚本/出演
[023] ■ ブレージングサドル(1974) 監督/脚本/作詞
[024] ■ ヤング・フランケンシュタイン(1974) 監督/脚本
[025] ■ メル・ブルックスの命がけ!イス取り大合戦<未>(1970) 監督/脚本/出演
[026] ■ プロデューサーズ(1968) 監督/脚本
火龍 (中国映画)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
火龍(かりゅう)は、中国で製作された映画で、愛新覚羅溥儀の後半生を描いた映画である。
[編集]
内容
溥儀が終戦後にソ連軍に捕らえられた後、中国に送還され、撫順収容所に収監。ここで、「改造」教育を受けた後、一般人として北京で暮らし始め、妻を迎えささやかながらも幸せな暮らしを送る。しかし、文化大革命によって、過去の罪悪を蒸し返され、紅衛兵の迫害に苦しむ中で、腎臓癌で死ぬまでを、妻・李淑賢の回想録を基に描いている。多少時間は重なるものの、いわば末代皇帝の続編的存在であり、事実溥儀の回想シーンでは、清の皇帝として即位する場面では末代皇帝に於ける同場面の映像が用いられている。
[編集]
タイトル
火龍とは火葬された龍、即ち皇帝を指し、溥儀が歴代で唯一火葬の屈辱を受けた皇帝であるという意味である。しかし、儒教が国是の漢民族出身の皇帝ならば火葬は屈辱であろうが、満州族出身で、順治帝の様に自ら望んで火葬された皇帝のいる清の皇帝であった、溥儀にとって火葬は屈辱だったのであろうか?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
火龍(かりゅう)は、中国で製作された映画で、愛新覚羅溥儀の後半生を描いた映画である。
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内容
溥儀が終戦後にソ連軍に捕らえられた後、中国に送還され、撫順収容所に収監。ここで、「改造」教育を受けた後、一般人として北京で暮らし始め、妻を迎えささやかながらも幸せな暮らしを送る。しかし、文化大革命によって、過去の罪悪を蒸し返され、紅衛兵の迫害に苦しむ中で、腎臓癌で死ぬまでを、妻・李淑賢の回想録を基に描いている。多少時間は重なるものの、いわば末代皇帝の続編的存在であり、事実溥儀の回想シーンでは、清の皇帝として即位する場面では末代皇帝に於ける同場面の映像が用いられている。
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タイトル
火龍とは火葬された龍、即ち皇帝を指し、溥儀が歴代で唯一火葬の屈辱を受けた皇帝であるという意味である。しかし、儒教が国是の漢民族出身の皇帝ならば火葬は屈辱であろうが、満州族出身で、順治帝の様に自ら望んで火葬された皇帝のいる清の皇帝であった、溥儀にとって火葬は屈辱だったのであろうか?
今日の東京の朝は寒かった。気温6℃。それで、考えたのだが、「熱帯」や「暑い砂漠」に一生住み続けている人がこの「寒い東京」、或いはもっと寒い「北海道」や「ロシア」に連れて行かれたら、どんな言葉で「寒さ」を表現するのだろうか?逆に「イヌイット(もともとエスキモーと呼ばれていた人達)」が赤道直下の「灼熱の地」に連れて行かれたら、「暑さ」をどう表現するのか・・・四季のある日本に生まれて良かったと思っている僕です。
アメリカ・ニューヨークには、地下で暮らす人たちがいます。椎名誠さんの娘さん、渡辺葉さんが翻訳した「モグラびと-ニューヨーク地下生活者たち」という本に載っていました。ニューヨークのマンハッタン島は、硬い岩盤で出来ているので、一度、水道管とか地下鉄とかを掘ったら、それが使われなくなっても、そのまま放置される事になる。地下の温度は地上より、変化が少ないので、過ごしやすい。食べ物は地上に出てきて、飲食店の残飯を持ち帰るのである。東京にも地下に住むホームレスの人達がそのうち、出てくるのではないか。話題は跳ぶが、地下鉄・有楽町線は、「有事(戦争)」に備えて、路線が作られたという話がある。北の方から、自衛隊の基地の横を通り、永田町まで通じているからだ。戦車が通れるようになっているという噂もある。あくまで、噂です。
「弟を殺した彼と、僕」(ポプラ社)を読んでいます。実弟を保険金殺人で殺された兄が、その事件の加害者と交流し、「死刑」に反対するまでを綴った本です。僕は、この本を読むまで、ヨーロッパ諸国では、すでに「死刑」はなく、先進国では「アメリカ」と「日本」だけだという事実を知りました。もちろん、アメリカは「州」によって、「死刑」を廃止している州もあります。著者が言いたいのは、「被害者家族」が必ずしも、「加害者」を「死刑」にしたいと思っている訳では無いという事です。つまり、現在の「死刑」というのは、「行政が、勝手に、被害者家族の気持ちを考え、事件の代償に加害者を死刑にしている。でも、実は被害者の家族の中には、加害者が生き続けて、罪を償い続けて欲しいという人もいる。それなのに、第三者的な行政が加害者を死に追いやる」と、著者は考えています。「心臓を貫かれて」(文春文庫・上、下)という本があります。この本は、また違う意味で「死刑」について考えさせられます。この本の著者は、極悪非道な殺人事件を起こした兄を持つ弟です。弟が、「何故、兄が残虐な人殺しになったかを三代前まで遡って、兄の生い立ちを含め、父親の事など」を書いています。この「兄」が何故世間に注目されたかと言うと、その州では、「犯人が死刑になりたくない」と訴えれば、「死刑」にならなくてすむのです。ところが「兄」は、「自分を死刑にしてくれ!」と言って、電気椅子に座ったのです。兄に何故、その言葉を言わせたかが、弟の、自分達のルーツをたどろうとした動機です。「弟を殺した彼と、僕」は読後感が少し変というか不思議で、読まれるなら、まず「心臓を貫かれて」だと思います。