本日は、弘法大師さまの誕生日。神戸国際会館コクサイホールで行われる神戸真言宗連合会主催の「いろはまつり」に参加することに。
過去、2-3回ほど参加したことがありますが、いつもは、第2部のいろはまつり式典(12時半から午後2時)のみ参加して、大阪へ行き、真田山プールで泳いでいました。
真田山プールの最終受付が午後4時なので、式典が午後2時すぎに終わるので、それから、大阪に向かって、充分からの間に合います。
が、今年のチラシをみると、午後2時からの第3部。勝谷誠彦さんの講演となっていたので、見たいと思い、前泊を大阪の実家にし、朝、真田山プールで、1200メートル泳いでから、神戸に向かうことに。
大阪駅12時発の新快速で三ノ宮へ。12時21分三ノ宮駅着。そこから自転車で、神戸国際会館前へ。
長いエスカレーターに乗り、6階ホール入口へ。
大龍寺のスタンプの押された志納袋に施主名山本隆雄と書き、1000円札を1枚入れ、受付に渡しました。先着2000名の記念品引き換え券付のチラシを渡し、記念品を受け取りました。
記念品は、祝 いろはまつりと書かれた ろうそく着火用ライターでした。
12時29分にホール内に。薄暗くなっていました。通路沿いにあいている席があったので、座ろうとすると、ここいますんで。と断られました。10席くらい断られ、最前列に近いところまで、行きました。
2席あいていて、座りました。が、となりの席には荷物が置かれていました。席をキープするためです。
自分の席には、リボンがテープで留められていたのに気づきました。稚児出演する誰かがキープしていた席かもと思われました。
暗くてよくわかりませんでしたが、場内は満席のようでした。
稚児入場が始まりました。私の席の横の通路を舞台に上がるため、稚児やその母親、お坊さんが通り、散華が投げられました。散華は、2つゲットしました。
21人の稚児紹介がありました。2歳から7歳までいました。
ひとりづつスポットライトが当てられ、名前が紹介されます。
ここである法則がわかりました。
2-3歳の子は、スポットライトが当てられ、自分の名前を呼ばれても知らん顔。5歳以上の子は、みんな、頭を下げて、あいさつします。
4歳の子は、知らん顔の子と親が無理やり頭を押さえてあいさつさせられている子、親と一緒に頭をさげてあいさつする子の3種類に分かれていました。
スポットライトを浴びて、自分の名前を紹介されてお辞儀ができるかどうかのボーダーラインの年齢は、4歳だということが判明しました。
稚児退場の時、まわりが明るくなったので、もっと前の本当に空席のところに座りました。舞台前から4席には、比較的あいている席がありました。
後ろを見ると、1階席は満席。2階席、3階席にも人が埋まっていました。
前回来たときは、6月15日は平日だったので、こんなに多くはいませんでした。
今回は、日曜日なので、こんなに多くの人がきているのだなぁと思われました。
神戸地区の真言宗70か寺が加盟する神戸真言宗連合会が主催ですが、大阪では、こんなイベントはきいたことがありません。
そして、般若心経や光明真言、南無大師遍照金剛を会場の他の信徒と大合唱しました。
光明真言では、だれも、五色光の印を結んでいませんでした。要するに、右手を高く上げていませんでした。
大阪の法楽寺では、法要時、お坊さん全員が、右手を袖の下から高く上げます。神戸の大龍寺の土砂加持法要では、右手を高く上げる人とあげない人が半々。
このいろはまつりでは、全員が右手をあげなかったわけです。
みなさんも、みていたらおもしろいですよ。「おんあぼきゃ ぺいろしゃのう まかぼだら まに はんどまじんばら はらばりたや うん」というときのお坊さんの右手を。
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神戸真言宗連合会会長の話。この中で、ワールドカップの初戦で日本が破れたことを知りました。
第一部最後は、弘法大師作詞として知られるいろは歌に合わせての踊りで締めくくられました。
他の人は、舞台の人の振付に合わせて腕を動かしていましたが、私は、真似ができませんでした。
ちなみに、いろは歌が、弘法大師作であったことを知ったのは、ここ数年です。
皆さんは、知っていましたか。
そして、午後2時5分から第3部の勝谷雅彦さんの講演が、、。ちなみに、第1部は、9時から12時まで、奉納詠歌舞踏大会。
勝谷さんは、読売テレビの「そこまで言って委員会」でよくみかけるパネラーです。
ちなみに、私がゲスト出演した回のパネラーではなかったので、お目にかかるのは初めてです。
http://www.ytv.co.jp/takajin/study/bn200601.html
この人は、檀上にじっとすることなく、舞台を端から端まで移動しながらしゃべっていました。
公明党・創価学会が大嫌いな人のようで、生活保護受付政党とかカルト教団と揶揄していました。
今回、2000名ほどの聴衆のなかに、一人も創価学会の人はいないわけで、安心して悪口がいえるからかなぁとも思えました。
でも、真言密教のこともよく勉強しているなあと思えました。さすが、灘高校出身と思えました。
前から3列目のいちばん中央の席から見ていました。
そして、午後3時すぎからは、神戸密教研究会 劇団「あじのこ」による演劇です。
毎回ありますが、見るのは、今回が初めてです。
今年が、30回目の節目の講演ということで、「衛門三郎」という四国お遍路を最初に行った人の物語という事でした。
四国のお遍路に行ったことがなく、衛門三郎という人の名前も聞いたことがない私にとって興味がありました。
演じるのは、すべてお坊さんです。
現在のお遍路さんとお茶屋さんとの絡みで始まります。
そして、お遍路を最初に行った人は、、、ということで、昔にさかのぼります。
伊予の国、現在の愛媛県に、衛門三郎(えもんさぶろう)という強欲非道な国司がいたそうな。凶作の年でも、お構いなしに年貢を取立て、食べるものがなく多くの村民が亡くなったりしていたそうな。
そこに、空海が托鉢(たくはつ)に行き、7日間通い、断られ、8日目に行くと、托鉢を割られたと言います。元来、鉄の托鉢は、割れるものではないのに8つに割れ、光となって、南の山にとんで行ったといいます。
そして、翌日、衛門三郎の長男が川に落ち、流され死亡。その次の日には、次男が木から落ち死亡。その翌日には、三男が崖から落ち死亡。8日間で、8人いた子供全員が亡くなったといいます。
それで、衛門三郎は、悔い改め、空海に会うため、空海の作ったお遍路道をとおって、四国を回ったといいます。四国を20周したとき、空海に会うには逆うち(反対方向に回る)すればよいという観音様のお付けで、逆うちを始めたとのことでした。
すると、徳島県の12番のお寺付近で歩けなくなり、倒れて、死期が迫った時、やっと空海に会えたわけです。
以下は、そのシーン。
そして、衛門三郎は、空海に、また国司の家に生まれたいと願ったそうで、空海は、衛門三郎再来と書いた小石を左手に握らせたそうで、そして、衛門三郎は息を絶えたという事です。
そして、伊予の国の国司の家に、男の子が生まれ、元気に育ちましたが、左手を開こうとしないので、3歳の時、祈祷をかけると、左手を開きました。中には、衛門三郎再来と書かれた小石が。
そして、その子は、大きくなって、みんなから愛される国司になったというもの。
ちなみに、その石は、51番の石持寺にあると言います。
物語りの中で、空海にまつわる話が随所に。
空海が、托鉢で回って、芋をもっている夫婦と出会い、その芋を分けてください。というと、これは、石です。とウソを言って、あげなかったら、わかりましたと言って、空海は去って、以後、その夫婦の畑からは、石しかとれなくなったとか。
空海が、ある農家で、水をくださいというと、この水は濁っているので飲めませんとウソを言ってことわると、以後、そこの井戸からは、濁って飲めない水しか出てこなくなったとか。
そういえば、以前、法楽寺の説法で、空海が、四国を回っていて、柿がたわわになっているのを見て、その家の人に、その柿を分けてくれませんと言うと、柿をあげるのが嫌な家人は、この柿は、渋柿でたべられません。とウソを言うと、空海はそうですか。と言って、そのまま立ち去り、以降、その家になる柿はすべて渋柿になったというという話もきいたことがあります。
これらは、正直に。また、施しの心を忘れずに。という教えだと思われます。
金のあるものはない者に。ちからのあるものはないものに。知恵のあるものはない者に。施さないといけないという教えです。
私は、金と力はありませんが、知恵は、ありますので、普段から、いろいろな人に、知恵を施しているつもりですが、
この劇の終了時、キャストやスタッフの紹介がありましたが、キャスト以外に、脚本・音響・照明まで、お坊さんだったのには驚きました。
とても、素人劇団には見えませんでした。
でも、2000名以上が収容できる大ホールで、千数百名が見ている中での劇。プロに近くなるのには理解できます。