フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

依存症について

2010年07月06日 00時31分50秒 | 社会・政治・思想哲学

 お相撲さんのかなりの数はギャンブル依存症だったのではないかと思う。依存症の人間を説得するのはかなり難しい。本人はそれを自覚していないし、それにはまっていることをそれほど悪いことだとは思っていないからである。だからやめさせるには、あのようにマスコミに報道されて国民から激しいバッシングを受けるという外的なショックが必要である。やめるという観点からは、バッシングをうけてよかったのかもしれない。
 依存症には、様々な種類がある。一番ポピュラーなのはアルコール依存症だろう。他にもニコチン依存症、薬物依存症、恋愛依存症、セックス依存症などがある。私もかなりのヘビースモーカーだったので、ニコチン依存症だったのではないかと思っている。ただ私の場合、やめようと決めてからすぐやめられたのでそれほどきつい依存症ではなかったのかもしれない。性格上、何かに依存して生きるというより自律して生きるほうを好むこともすぐやめられたことと関係しているかもしれない。

 

 依存症は、ある一定の行為を行うことで、虚偽の安心や精神的安定が得られるため、その行為に執着することから始まる。このように、とりあえず目先の安心・安定を求めるときは、精神的緊張を強いられている場合が多い。例えば、相撲のように勝負の世界に身をおいていたり、たこ部屋で長時間労働を強いられていたりしている場合である。だから、依存状態から脱するためには、何より緊張状態から、精神的にリラックスした状態にしなければならない。そうでなければ、何かの依存をやめることができても、また別の依存に移るだけになってしまう。

 

 搾取する側の観点から考えると、依存症の人はいいカモである。高い税をかけてもニコチン依存症の人はやめないし、アルコール依存症の人も同様である。国家が中毒にして搾取している。ひどい話である。やくざも金の持っている相撲取りをギャンブル依存症にして金を巻き上げていた。国家もやくざも同じようなものだ。金を巻き上げることしか考えていない。

 

 それから依存症の人との付き合いであるが、かなり問題がある。依存症の人は依存している対象に執着していて自分の欲望を満たすことを重視するから、人がどうしたいかとか、どう考えているかとかをあまり考慮せず自分勝手に行動する。自分の執着中心に行動し周りのことに注意を払わない傾向にある。だから、一緒にいて面倒くさいし厄介なトラブルに巻き込まれることになる。

 

 依存症の人は自分が依存状態にあることをあまり認めないし、それを悪いことだと思っていない。だから、それを注意する人はうざい奴ということになる。しかし、注意する人間はその人のことを本気で考えているのだし、彼が抜き差しならない状態になっていることを本気で心配しているのだ。どうでもよければ注意などしない。
 まぁ、人の気持ちがよくわかって人間関係をうまく構築できるタイプであれば、そもそも依存症にはならないだろう。
自分しか見えておらず、人間関係に問題を抱えているから依存症になるのだ。だから自業自得のところがある。すこし、厳しい意見かもしれないが。

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