フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

体を観察すること(無我と無私・オイゲン・ヘリゲル著)

2010年07月23日 08時43分53秒 | 読書・書籍

 昨日、オイゲン・へリゲルの「弓道における禅」を「無我と無私」を読んだ。
 薄い本なのですぐ読み終わったが、読み終わった後、精神的にすこし衝撃を受け、しばらくの間、固まってしまった。
 短いが内容は濃くて素晴らしい。

 去年、鎌倉の禅寺、円覚寺に行ったときに、あの寺のたたじまいに感動してしまった。その「何か」が私の内部に働きかけ、「しーんとする」精神的静寂を経験した。それ以来、禅というものにはまってしまった。
 その時、寺の入り口付近でで弓道をしていた。そのときは深く考えていなかったが、弓道と禅は深い関係にある。
 私は今、「何か」とか「しーん」とか、言葉にできないものについて、説明した。それでも日本人なら「なんとなく」感覚で分かってくれることが多い。
 しかし、このドイツ人である著者はそのなんとなくをゆるさない。ヨーロッパ的自我が理性的・論理的にクリアーな状態を要求するのである。
 だからこそ、このような長い間読まれ続けている傑作が生まれたのだと思う。
 私たち日本人なら師匠に口答えまでして、あれこれ追及しようとせず、言われたとおりにやるだろう。それが日本式だ。
 しかし、彼はわからない状態で弓を射るということができない。その行為に何らかの目的が明確になければ納得できない。
 それを得るため師匠に、問い続ける。その師匠との衝突の過程があるからこそ、また彼の精神的葛藤がよく見えるからこそ、禅や弓道の初心者である私たちに、様々なことを教えてくれる。

 

 彼は「離れ」がどうしてもうまくできない。離れとは弓を引いて指を離すときのことである。彼は技術的にどうすればうまくいくかの指導を求めている。しかし師匠はドイツ人に意味不明のことを言う。

 オリゲン 「的に当てるという目的を果たすために、弓を引くという手段をとっているのです。この関係を無視するわけにはいきません。子供は目的とか手段などということを考えませんが。私にとってこの二つは切るに切れない関係なのです」

 

 師匠 「正しく射るためには無為自然でなければなりませんぞ。的に当てるために正しい矢の離れを修得しようと躍起になればなるほど、ますます離れはうまくいかず、当たらなくなるでしょう。あなたのあまりにも強い執着が邪魔をしているのです。作為的に狙わない限り当たらないと思っているのでしょうね」

 オリゲンはこの時点で、無為とか強い執着ということが何を意味するか分かっていない。むしろ強い執着があるからこそうまく当てられると思っている。

「ではいったい私はどうすればいいのでしょう」と私は思いあぐねて尋ねた。

「正しく待つことを覚えなければなりません」

「ではどのようにしたらそれができるようになるのでしょうか」

「あなたは自身から離脱し、あなたやあなたのもの一切を捨て去れば、そこに残るのは引き絞った弓だけになります」

「では作為的に無為になるのですね」と思わず私の口から漏れた。

「私にそんなことを言う弟子は今まで誰もいませんでした。だからどう答えたらよいのか分かりません」

「ではいつ新しい課題が始まるのですか」

「時が熟すまで待ちなさい」

 

 また、別のときにこうも言っている。

 ある日私は師範に尋ねた。「『私』が矢を射ないのなら、いったいどのようにして矢をいることができるのですか」

「『それ』が射るのです」と師範は答えた。

「師範がそうおっしゃるのを前にも何回か聞いたことがあります。では別な方向から伺いましょう。『私』がそこに存在していないのなら、いったいどのようにして自分を忘れて離れを待つことができるのでしょうか」

「いっぱいに引き絞られた所で、『それ』が待っているのです」

「では、『それ』とはいったい誰ですか、いや何ですか?」

「ひとたびそのことが分かったら、あなたはもはや私を必要としなくなるでしょう。あなたが経験を通して分かるようになるのを待たずに、私があなたに手がかりを与えようとするなら、私は最悪な教師となり、解雇に値するでしょう。ですからその話はやめて、稽古しましょう」

 

 この本を読んで、個人的にいろいろ合点がいったことがたくさんあった。
 本来、日本にはスポーツというものはなく、肉体の鍛錬を通じた宗教的儀式だけがあったのだと思う。イチローを見ているとよく分かる。彼のやっていることは禅なのではないかと思う。
 相撲は、スポーツ的側面を重視しすぎて駄目になってしまった。
 
 少し分析的に弓道を考えてみると、とにかく徹底的に弓を射ることによって弓の軌道を体に染み込ませることが重要なのではないかと思う。
 そうすることによって、体がその軌道から逆算して、体を調節する。
 それが無為の状態でなされるのである。
 無為の状態でそれができるようにするまで、鍛錬する。頭でなく身体が反応するように。
 これらの本当の目的は的に当てることではなく、人を無我と無為の状態にすることにある。だから、その状態になれば、たとえ的に当たらないという結果になったとしてもよしとするのである。
 このような、宗教的儀式ともいえる弓道の中核には、呼吸法がしっかり会得されていなくてはならない。
 坐禅と同じである。

 私も特に呼吸に集中することで、日常生活の中で瞑想を行っている。身体の変化により呼吸がどのように変化するのかを淡々と観察するだけである。そのことで自分というものがどういう人間なのかよく分かってくる。

 結局、道は違ってもたどり着くところは同じである。そのような方法が、クールな日本的やり方である。

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