王は豊穣の増幅装置であるが、しかしその身体は世俗の規範の外部にあるから、つまり絶対的な他者であるから恐ろしい力をもち、社会から隔離され、タブーで拘束されなくてはならない。そして同時に、王の身体が宇宙のリズムの貯蔵庫であるから、その生命が衰弱したときには、定期的に殺害されなくてはならない。「群衆と権力」
1Q84に「フレイザーの金枝篇の王殺し」の記述がある。いまいち意味がわからなかったが、なにかあるぞと感じていた。上の記述はアフリカの王殺しについての分析であり、7年ごとに定期的に殺される。
アフリカの王は、絶対的他者であり、怪物的生命力をもつとされるが故に、絶対支配を行使できる。これは神話的想像力によって正当化された政治権力である。しかし王権は、その即位儀礼を見るかぎりでは、絶対的隷属性を示す。王位候補者が選ばれると、はじめに彼は共同体の全員から、罵倒され、足蹴にされ、汚物を投げつけられ、などの暴力的行為を受ける。これは王権がそもそも汚れていることを示すものであり、本来的には共同体の周辺的存在であり、またその故にいずれは聖なる力をもつことを示すののである。(抗争する人間)
興味深いのは権力者の絶対的隷属性である。王なのに暴力的行為を民衆から受けることである。そう言われてよく考えると、女王バチはほとんど奴隷状態で子供を産まされている。権力者なのか奴隷なのかよく分からない。
日本の総理が罵倒されて支持率が下がりコロコロ変わるのは、何か王殺しと関係しているのではないかと仮説を立てているのだが、本当のところは分からない。
内部的に結束力を高めるためには、外に敵がいればいい。小泉純一郎は、中国・北朝鮮や旧体制としての経世会を仮想の敵にして内部の結束力を高めた。うまい手法である。菅直人は小沢を仮想の敵したが失敗した。中途半端だった。
力があるうちは王殺しは行われない。力が弱まると、殺される。それから神聖さと穢れを併せ持つと考えられているのが権力者の特徴である。
もう少し、深く考えてみたい。