雨の音で目が覚める。それほど激しくはないが、雨がテントのフライをパラパラと叩きつける。まだ5時前である。携帯ラジオを付けて、NHKの天気予報を聴く。東京の天気は晴れだと言っている。じゃあ、もう少し寝て雨があがるのを待つか、ということで、二度寝する。
6時に起きる。まだ雨は降っている。今日は、雲取山から三条ダルミに降りて、飛龍山の先まで行く予定である。そうするとそろそろ出る準備をしなければ、日暮れまでに辿りつけないかもしれない。どうするか早く決断しなければ。
雨はいつあがるか分からない。あがるのを待っていたらいつ出れるか分からない。しかし、雨の中を歩くことは、今すぐ決断できる。決断すればすぐ行動に移せる。だから、出ることにした。せっかちで決断の早いところは、多分、長所だろうと思う。
雨の中でテントを撤収するのは大変だ。テントをたたむときに、荷物を全部外に出さなくてはならない。だからモタモタしていたら荷物が濡れてしまう。
まず、雨具を着て、折りたたみ傘を開き、その下に荷物を置いて、テントを素早く撤収する。
まだ初日なので荷物が多い。きれいにパッキングしなければ荷物が全部入り切らない。しかも雨の中で素早くそれをやらなければならない。テントも雨にぬれて重い。なんとなく気分が重い。だけど仕方がない。さまざまな状況の中で、自分にできることをやらなくてはならない。
テントを撤収していたら、雨具を着た若いカップルが私の方をチラチラ見ながら登っていった。
「おはようございます」と挨拶をした。聞こえなかったのかどうか分からないが、無視された。
荷物のパッキングも何とか終わり、いざ出発。7時15分。
30分くらい歩くと、水場があった。こっちのほうが地図にある本当の水場で、私の泊まった場所は違うところだったようだ。
まぁ、問題はないが。
水場の看板によると、標高1150mで、雲取山まで2時間45分かかるらしい。
強くはないが、それなりの量の雨が降り続いている。こういうとき、ゴアテックスの雨具があればなぁと思う。私の雨具もそれなりの物だが、それでもゴアテックスには劣る。
本来、アウターは外側の水、つまり雨に対処すればいいわけであるが、登山はハードに動くことから内側の水、つまり汗とも戦わなくてはならない。ゴアテックスは、一応、雨は通さないが汗は通すことになっている。そこがゴアテックスのすごいところである。もちろん程度の問題ではあるが。
そこで、私の取る戦略は、内側の水と戦うこと、つまりゆっくり歩いてできるだけ汗をかかないというやり方である。息があがってくると汗が出てくるので、呼吸に注意して一歩一歩ゆっくり登る。
堂所付近で、さっきのカップルが休んでいた。「こんにちは」と声をかける。男の方は軽く会釈しただけだったが、女性の方はきちんと「こんにちは」と言ってくれた。さっきは無視したのではなく聞こえなかっただけだと確信する。
あまり大きなザックを担いでいないことから、日帰りの登山だろうと思う。ふたりともきちんと雨具を着てザックカバーをかけている。それなりの経験者だろう。ただ、ペースが少し早いのではないかと推測する。小袖から登ったとしても、まだ休憩するほどの距離ではないからだ。
少し経ったところで、二人が私をスイスイと追い抜いていった。やはりペースが早い。あのペースだと、また私が追いつき追い越すことになるだろう。結局のところ、亀のように自分のペースで着実に登っていったほうが効率的である。早く登って休む、早く登って休むという瞬発力を重視した筋肉の使い方をすると、筋肉に乳酸がたまりやすく疲れてしまう。だからゆっくりと持久的な動きで乳酸を溜めないようにしなければいけないのだ。
とはいっても、私も楽なわけではない。すこしきつい。雲取山ってこんなにきつかったかと思う。
雨のせいで湧き水が滝のようになって、道を塞ぐ。濡れるの覚悟で通り抜ける。どうせ雨で濡れているのだから、関係ないといえば関係ない。
七ツ石の分岐点を通り過ぎて、ブナ坂の方に向かう。分岐点の標識付近で、案の定、さっきのカップルが休んでいた。
「この辺けっこう疲れますよね」と声をかける。男はブスッとしている。しかし女性はにっこり微笑んで、「そうですよね」と答える。笑顔が可愛い。
多分、女性の方が体力があるのだろう。男の方は少し太っている。疲れてくると人と話すのも億劫になる。ブスッとしているだけでなく、不平不満を言い始めると、低体温症のおそれがある。気を付けなくてはいけない。身体の状態が精神の状態を決定づけている。それに敏感にならなくてはならない。
さすがにブナ坂というだけあって、いい感じのブナの樹がたくさんある。ブナの樹はつるっとした感じで色気がある。
ブナの葉に落ちた雨は、枝をつたって幹に流れる。そして葉に降り注いだ大量の雨がブナの根にむかい、根がたっぷり雨水を蓄える。水をたくさん含んだブナの根は湧き水を生み出し、それが沢となって、多摩川に流れていく。
このような都会から遠く離れた樹々の働きによって私たちの生命が保たれている。
上の写真のブナをよく見ると、熊の引っ掻いた跡がある。熊はブナの実が大好物で、よく木に登って食べているらしい。引っ掻いた跡は木に登ったときについた跡だ。
熊ちゃんに会いたい。どこにいるんだろう。
後ろにさっき休んでいたカップルが見える。ただ、私に追いつくことができない。だんだん疲れてきているのだろう。もちろん、私も疲れてきているが、正直言ってまだまだ余裕である。息があがらないように、汗を必要以上にかかないように、ゆっくり着実に登っているから。
いつの間にか、カップルの姿は見えなくなってしまった。
東京の予報は晴れなのに、一向に雨はやまない。雨のせいで景色もよく見えない。気分はだんだん沈んでくる。
屈強の軍隊を弱体化させるのは、敵ではなく、自然だと言うことである。その中でも、特に雨に長時間打たれると、訓練された屈強の男たちでさえ音を上げるそうだ。長雨は少しずつ精神を蝕み弱らせていく。
確かに、長い間雨に打たれていると、寒くなってくるし、ジメジメして気持ちが悪い。精神力が弱くなっているのが感じられる。ただ、私は雪国育ちで忍耐力が強いのか、こういう惨めさに耐える力がある。普通に考えれば、なんで雨の中こんなことをやっているのだろうと思うだろう。楽しいことだけやりたい人はこんな雨だったら帰ろうとすると思う。ただ、未知の世界に入っていくためには、ある程度の困難は乗り越えなくてはならない。ある人はこんな冒険をドラゴンクエストやファイナルファンタジーなどのロールプレイングゲームで済ませるのだろう。しかし、私たちは現実の世界の中でリアルにそれをやっている。だから、多少のきつさもウエルカムなのである。
まぁ、かっこつけて言っているが、いい歳してガキだということである。
雲取山山頂にある雲取避難小屋に到着。11時5分。
汗をかかないようにしたが、無駄な努力でびっしょり汗をかいている。すごく寒くてブルブル震えている。温度計を見ると8℃である。着替えたいが着替えはない。仕方ないので、持ってきたユニクロのフリースを着る。
後から来たおじさんは寒くて死にそうだと言っていた。唇が紫色になっていた。天気予報は晴だったのにと愚痴をこぼしていた。気持ちはよくわかる。雨具も十分なものではなく、下もはいていない。なんとなく綿っぽいシャツで、全体的に軽装なので低体温症が心配である。雲取山だからといって侮ってはいけない。
私も登山を始めたばかりの頃は、綿のTシャツを着て登っていた。綿のTシャツは汗を吸うだけで乾かないのですごく寒い。だから、一回の登山で何回も着替えていた。その後、登山では綿のTシャツはNGだということを知って、モンベルのウィックロンの生地のシャツを着ている。これが信じられないくらいすごい。最初に着たときは感動した。汗がすぐ乾く。山に登らない人にもお薦め。多分手放せなくなる。話がそれた。戻そう。
私はこれから飛龍山のほうに向かわなくてはならない。だから、おじさんが少し心配だったけれど、先に失礼しますと言って、三条ダルミに向かった。
雨は一向に止まない。
つづく。