最近の若者は尾崎豊の歌に全く共感しないという記事を読んだ。例えば、15の夜に「盗んだバイクで走りだす」という歌詞があるが、それは悪いだろという反応をするらしい。それは確かにその通りだと思う。
それと、またちょっと違うと思うが、日本でデモが起こらない理由について、宮台真司が面白い事を言っていた。大学生についてであるが、どういう人間が社会的な問題について関心が高いかを調査したところ、社会的な問題について関心が高い人は、等身大の友人関係や性愛関係がうまくいっている人だそうだ。逆に言えば、等身大の人間関係、対人関係に苦労している人間は、社会的批判力が乏しくなるということである。つまり、日本の若者は等身大の問題について不幸すぎるから、自分の問題にすべての関心が占められてしまい、社会的問題について考えるだけの余裕が無いといえる。自分の問題に精一杯だということである。なるほど。
15の夜をわたしを含めて当時の若者が熱狂したことについて考えてみる。バイクを盗んだことは(もちろん悪いことではあるが)特に深く考えないし真似もしない。むしろポイントは、行く先も分からぬまま走りだしてしまう訳のわからない衝動の方にある。つまり、意味もなくエネルギーが有り余っているのである。その激しい衝動に共感するのである。そのエネルギーは、社会と衝突する。今の若者はどちらかというと、社会の内側にいて、ルール違反の方に反応するのだと思う。
また、尾崎豊のラブソングを思い出しながら、分析してみたが、尾崎豊のラブソングは二人の恋を少し離れた場所から客観的に描写している感じの詞である。それに対して、最近のラブソングは、自分の思いをありったけ叫んだり、寂しい心情を淡々と語ったりする主観的な歌詞が多い。
尾崎のラブソングは、彼女との関係が社会的弱者ゆえ破綻しそうになったり将来が不安だったりして、これから起こる別れを先取りしているような少し哀しい感じの詞である。
対人関係、対社会関係に分けて言えば、尾崎豊の詞は対社会関係に関するものが多いような気がする。そういえば、わたしなんかが若い時は、友人や恋人に関して、多少のゴタゴタはあったけれど、最悪な問題ではなかった。もっぱら問題だったのは、大人による締め付けだったような気がする。
分析するに値する問題なので、また後で詳しく考えてみる。
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