日本を代表するメロデイメーカー 大瀧詠一さんと過ごした青春の1ページを思い出してみました。
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前の記事のコメントにもありました。 僕とエイイチさんの若いころの付き合いについて知りたいということなので、簡単に書いてみます。
エイイチさん、としか僕は呼べないんですが、その理由はあまり公表されていないようなので ここには書きませんが、とにかく 最初に会ったのは1968年 僕が16歳で彼が20才だったと思います。
その年の夏に僕はプロのギタリストとして活動を始めていて、彼はその時僕が弾いていたグループ Bikkies というバンドのリード・ヴォーカルだった布谷さんという人の友人だったわけです。
それから1971年いっぱいまでなんだかんだ お付き合いが会ったと記憶しています。 作曲家志望という人に会ったのはその時が初めてだったので 非常に驚いたことを覚えています。 僕はギター弾き、彼は作曲家、お互い若かったんですね。というか 僕にとては4つ上の兄貴のような存在で音楽はもとより、それ以外の私生活でかなり一緒にいたように思います。
僕達のライブにはほぼ毎回来てくれていましたし、ライブが終わるとその頃活動の場としていた新宿で遊ぶわけです、遊ぶと言ってもお互い酒は飲めない、女性にはもてない、することは映画を見たり、映画が終わって早朝ボーリングに行ったりするわけです。
そういうことが無いときは当時小田急線の梅ヶ丘に住んでいた布谷さんの4畳半のアパートに皆で行き、シケモクなど吸いながら音楽の話を中心に夜な夜な朝まで語り明かすわけです。
とわいっても僕はほとんど聞き役で 布谷さんは口下手な人だったのでエイイチさんの独壇場になるわけです。当時の日本の音楽界の現状、ミュージッシャンの評価、欧米の音楽界とミュージッシャンの凄さ、アメリカンポップスの歴史、谷岡ヤスジ、落語、政治、人生について、話は飛びますね、、(笑)
若い僕はいろいろ影響を受けたと思います。 特に哲学に関して彼は非常に凝っていて、人生とは、人間とは、そういったことを教えてくれましたね。 ニーチェ二傾倒していて、、かなり僕も当時は影響を受けました。縄ない人になるな、とか、深淵を覗いているつもりが深淵に覗かれているのだ、とか、、難しいですね(笑)
音楽は彼は作曲家志望なので出てくる名前が面白いくらい新鮮で、例えば ジムウエッブ、バート・バカラック、アソシエイションだ、なんだとかんだと、いわいるアメリカンポップスのなかでプロの作曲家の果たす役目は大きのだということ、そして曲はこうして作るのだ、と、アコギを持って教えてくれるわけです。
コードの3度の音からメロデイを出発させろ、とか、その他スタンダードなコード進行を見せてくれるわけです。 まあ、その時は後の巨匠も出発点にいたのでしょう。
そしてその後エイイチさんはCSN&Yとかバッファロー、モビー・グレイプなどのソフトロック系のグループに傾倒していったわけですね。朝起きたらステイーヴ ステイルスやギャーリーブルッカーのような声になっていたらいいな、とか口癖のように言っていましたね。 プロコル・ハルムは僕も大好きで共通の好みでした。
そののち彼はそれまで付き合いのあった東京のミュージッシャンたちとバンドを組み、ハッピーエンドのリード・ヴォーカル&リズム・ギタリストとしてデビュー、その後は日本を代表するメロデイメーカーとして大成していくわけです。
71年ごろは僕が当時やっていたブルーズクリエイションとハッピーエンド、そして山下洋輔さんのグループと3つでよくツアーにも行った記憶もあります。今思うと凄いコンビネーションだったと思いますが、全てが創世記、Blues Rockも、日本語のソフトロックも、日本のフリージャズも荒野を目指していた時代だったのだと思います。
梅ヶ丘に向かう小田急線のなかで よく、、”カズオ、女性に声をかけるのは こうやってやるんだ、見てろよ、、”
などといって 声をかけようとするのですが、、
”、、、、、”
”あれ、エイイチさん、どうしたの?”失敗?
” いや、今のは悪いタイミングの見本だ、、”
などと楽しい時間を過ごした思い出があります。
僕には男の兄弟がいなかったので エイイチさんは僕にとって青春の兄貴そのままでしたね。ほんとうに充実した時間を過ごせたしずいぶんかわいがっていただいたと思います。
まだまだ若かったエイイチさんの出発でしたが 皆に愛されて素晴らしい人生を送られたんだなと 思いました。 良い人生でしたね。
長いこと会っていなかったので もう一度お会いしたかったですね。 それだけが残念です。
Thank you Eiichi san See You In Heaven。 R.I.P.