アンティマキのいいかげん田舎暮らし

アンティマキは、愛知県北東部の山里にある、草木染めと焼き菓子の工房です。スローライフの忙しい日々を綴ります。

奄美・加計呂麻島の旅⑥

2019-01-06 14:51:55 | 小さな旅
   しびらんか最後の朝食には、なり味噌が出ました。救荒食として食べられていたソテツの実。毒出しして粉にしたものを味噌に混ぜているものだと思うのですが、こちらはかなり砂糖を入れてピーナッツまで入っている甘い贅沢な食べ物になっています。市販されているものだというので、帰りにお土産に買いました。甘すぎて、まだ冷蔵庫に残っています。

    薩川から瀬相港に向かう途中。俵小学校の前には山羊が草を食んでいました。

    昔は、山羊を飼っている家は多かったのではないかしら。

    瀬相港。フェリーがつくと、観光客というより年配の女性が何人も下船。みな手に花束を持っています。どうやら墓参りらしい。先祖崇拝の盛んなこの地では、月に2回、決まった日に墓参りする習慣があるそうです。地元に住んでいるならできないことはないでしょうが、近ごろは遠くに移住した人も多いので、墓参りがままならなくなったそう。それでもまだ、フェリーでわざわざやってくる人たちがいるようです。そういえば、道すがら見たあちこちの立派なお墓には、生花が供えられていました。花が枯れるか枯れないかのうちに、次の墓参りをするのでしょう。

    車の運転、とくに狭いところでの縦列駐車とかバックが苦手の私。今回の旅で最も心配だったのが、フェリーの中の決められたわずかな場所にちゃんと車を入れられるかどうかでした。でも、私同様、心配していた友人が結局難なく、行きも帰りも入れてくれました。    

    加計呂麻島をあとにして、古仁屋港に。港の河口付近にかかっている橋。

     古仁屋から、まず、瀬戸内町の西の端へ。途中、マネン崎展望台に立ち寄りました。

     そのあと、ヤドリ浜へ。こちらの海岸は広い。でも、加計呂麻の浜のどこでも拾えたサンゴが、ここは皆無。

     そこからさらに西に進み、ホノホシ海岸へ。

     ガイドブックで見た、この丸い石に惹かれて訪ねました。丸くてすべすべの石、持って帰りたいところでしたが、ここは禁止。
 
     この海岸は、太平洋に面しています。だから、加計呂麻島の静かな海岸とは様相が違います。
 
     ホノホシ海岸の駐車場のある場所は広い公園になっていて、一面白いイソギクが咲いていました。

      ノギクやミヤコワスレに似ていますが、絶滅危惧種なのだそう。

      移植したのか、イソギクだけを残したのか、きれいに手入れされています。

      でも、「ハブ注意」の立て看が。ぎょっとします。

       ホノホシ海岸を後にして、一路奄美の中心地名瀬へ。行きとほぼ同じ道をたどったので、長いトンネルをいくつも通過しました。

        1時間半ほどで名瀬に。街らしい街ではありますが、人も車もさほど多くはありません。この日の宿はゲストハウス。私も友人もゲストハウスに泊まるのは初めて。1泊3000円という安さに惹かれて選んだのですが、部屋のドアを開けてびっくり。全面ベッドしかない! 

        夕食は、加計呂麻島で知り合った方に勧められた「かずみ」へ。島唄が聞けて、島の郷土料理が食べられるお店です。予約した時間に間があったので、商店街を散策しました。こちらも、そんなににぎわっていません。広い間口のリサイクルショップに入ってみました。値段を見ておどろきました。なにもかも、高いのです。そういえば、加計呂麻の人たちからも、物価は高い、と聞いていました。離島だからなのでしょう。たぶん、最低賃金は低いと思うので、普通に暮らすのは厳しそうです。

       こちらが「かずみ」の料理のほんの一部。次々に盛りだくさんの量が出てきました。カウンター越しに見える、女将のかずみさんと娘さん二人の仕事の手早さがすごい。

     ツワブキの煮もの。フキのように筋を取って煮たものです。筋を取るのに二時間かかったと、女将さん。さて、この女将・かずみさんは島唄の歌い手の第一人者だそう。島では、島唄の歌手のことを「唄者」というようです。

      この日も、お客の所望に応じて何曲か歌ってくれました。揚げ物をする手を休めないまま、太い、響きのある独特の節回しで歌いだし、居合わせたお客を魅了。三線を弾く男性に合わせて、お客として来ていたちょっと年配の女性も歌い出しました。

      こちらの男性は、本職の三線弾き語りらしく、滑らかな口調で次々島唄を紹介しながら歌ってくれました。島唄は、沖縄民謡とは少し違う、もっと哀調をおびているような印象を受けました。

       そのうち、たぶんチヂンという名の太鼓を順番にお客に持たせて、三線の男性のリードで叩くという趣向がはじまりました。最初に持たされたのが私たち。打楽器をたたくのはひさしぶりで、楽しかった。そして最後は、全員立って踊りが始まりました。踊る、というのも久々で、なんだか気分爽快。奄美最後の夜がこうして終わりました。
   
      
  

    
       

    


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奄美・加計呂麻島の旅⑤

2019-01-05 14:52:54 | 小さな旅
加計呂麻島4日目の朝は、雨。海はどんよりとした灰色で、この日予定していた海の遊びができなくなるのではと心配になりました。でも、10時ころには何とか雨がやみ、曇り空に。友人は、念願のスキューバダイビングに挑戦するために、宿の主人と海へ出かけました。奥さんのほうは、隣の薩川小学校で開催されている学芸会に参加するため、早朝から不在。なんと、午前中の2時間ほど、宿に残っているのはお客である私だけ! 室内から外を撮った写真がこちらです。

   稲武でも、いまでもこういうお宅はあるようですが、島の人たちはほぼ全戸が鍵をかけない! 宿のご夫婦は、「フェリーで対岸に買い物に行くくらいでは鍵はかけない。東京とかほんとに遠くまで行くときはさすがにかけますが」とおっしゃいます。奥さんは島の生まれ育ち。ご主人は東京。8年ほど前から、奥さんの出身地に戻って島暮らしを始めたそうですが、最初のころ、鍵をかけて外出したら、隣近所や郵便屋さんからブーイングの連続。「荷物を置いとけないではないか」「ものを持ってきたのに玄関が空いていないと困る」以来、鍵はかけない生活がはじまったとか。little lifeの宏美さんも「島の治安は極めていい」といっています。そんな島だから、平気で赤の他人の私一人を宿に残しても、心配しないのでしょう。隣の小学校からは、島の民謡らしい曲調の歌が、ずっと聞こえていました。

    午後は何とか海に入れそう、というので、お昼前、little lifeの天野宏美さんが私を連れに来てくれました。嘉入までは、彼女の運転で林道らしい難路を通りました。うっそうと茂った森、というより密林に近い南国の植生が珍しい。10年近く前に、宏美さんが稲武にいらしたとき、南信州の昼神温泉に一緒に行ったのですが、道中、彼女が杉やヒノキの山々を見て、「島と全然違う森だ! 杉やヒノキの森、いいですねえ」というのを聞き、こちらが驚きました。言われてみれば、温帯の三河や南信州と亜熱帯の加計呂麻島とは植生が違うのは当たり前なのですが、こちらではいやというほど見慣れた杉やヒノキが貴重に思える土地がある、ということにあらためて気づいたことでした。ちなみに、島で使われている建材は、おもにアカマツだそうです。

    日本で最も大きなシダ、と宏美さんが教えてくれた植物。ヒカゲヘゴというのだそうです。

    こちらはサキシマフヨウというのだそうです。南方独特の種だということです。島のあちこちでかけました。いい花です。

    峠から見える阿多地の浜。

    阿多地の集落の真ん中にある大きなデイゴの木。赤い花が咲く5月頃、来てみたい。木の下に立ってくれたのは、宏美さん。

    デイゴの隣にあるアシャゲ。アシャゲとは、かみごと(神事)をする建物のことです。集落のあちこちに今も残されていますが、実際に使っている集落は少ないようです。

    この日宿で見せてもらった1962年(昭和37年)の写真集に、同じ場所の写真が載っていました。

    この集落の人数は、写真集によると当時200人。いまは二人だけだそうです。

    子供もたくさんいたころ。アメリカからの返還後、4年ほどたってから島の風俗習慣を調査に来た、西洋の民俗学者が撮った写真だそうです。

     俵の資料館でお話を聞いた区長さんが小学校の高学年だったころ。電柱は立っていますが、まだ数は少ない、とかかれています。

    当時の島の家々。南方の人たちの家をほうふつとさせます。こちらで見かける家々、立派な家もたまに見かけましたが、古い家でよく目にしたのが、四角い造りの平屋。宏美さんたちの家も、little lifeという屋号にふさわしい小さな家です。50年前の写真集に載っている家々の屋根をトタンなどに取り換えると、ああいう家になるのだなと納得。
 
     このlittle lifeの庭で、お昼ご飯をいただきました。この日も、関東から常連のご夫婦が。庭にテントを立てて数日こちらの海で素潜りの醍醐味を味わっておられるとのこと。彼らが言うには、「葉山の海とはやっぱり大違い! ここは美しい!」。

      ランチはキーマカレー。食後に出してくれたレモングラスのハーブティーが、抜群においしかった。いつも飲むのとは大違いの強い香りにびっくり。レモングラス単独でも十分おいしくいただける飲み物でした。

      庭には桑や枇杷も自生。桑は昔蚕を飼っていたころの名残。おどろくことに年に二回、実をつけるそうです。

      little lifeの前の道。

      右手は山に。こちら手前に、数軒の小さな古民家が並んでいます。左側は彼らの畑。昔は家があったのかも。

      反対側は海に至る道。  
     
      お昼ごはんの後は、青空が見えてきたので、隣の集落の須子茂の海岸へ。相客はまた素潜りのため沖に出ました。私一人は、宏美さんと海へ。

       二回目のシュノーケリングですが、あいかわらず呼吸の仕方が下手。でもなんとかサンゴの見えるところまで連れていってもらって、またまた色とりどりの魚を見ることができました。宏美さん夫婦の話では、「ハワイなど南のいろいろの海に潜ったけれど、加計呂麻島ほど、魚の種類の豊富な海は知らない」とのことです。リアス式海岸なので、浜によって魚種も違うのだそう。

       浜に戻ると、宏美さんたちと同じ集落に住む男性がサス?で捕ったタコを見せてくれました。
彼も何十年か都会に出て働いた後、こちらに戻ってきたのだとか。

     さて、宏美さんご夫婦とはこの日でお別れ。年に平均250日は海に潜っているという彼ら。ときどき、ハワイやトンガにでかけて、向こうの海でイルカと遊ぶツアーの企画にたずさわったり、遠い国に旅に出て見聞を広げたり。私の生活とはかなりかけ離れた日々を営む彼ら。興味深い人生を歩んでいます。

    帰宅後届いた宏美さんからのメイルにあった次の言葉には、印象深いものがあります。

    「(加計呂麻島ほど)ここまで手付かずの海岸線・海が残っている島は日本にはそう多くないと思います。祈りにもにた気持ちで、この豊かさがいつまでも続くことを願うばかりです」 
    
    この日の晩も、ごちそう。何マグロだったか忘れましたが、盛沢山すぎて、食べきれず。

    こちらは郷土料理の塩豚の煮もの。加計呂麻島では、正月料理はこの塩豚がなくては始まらないのだそうです。冷蔵庫のなかった時代、豚をと殺するとかたまり肉を塩漬けして保存。塩出しして野菜や海藻と一緒に煮ます。いまは、塩分はかなり少なめにして作るそうです。

    塩豚、今度いい豚肉の塊が手に入ったら、久々に作ってみよう。

       


      
   
     
      


     
   
 

   
    
 


 
   



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奄美・加計呂麻島の旅④

2019-01-02 21:55:43 | 小さな旅
    海宿5マイル、最後の朝食も、びっくりするようなおいしさ、というのではなく、しみじみしたおいしさを感じるご飯でした。安心して食べられるご飯って、ありがたいなと改めて思いました。

    このハンモック、なかなか寝心地いい。海宿の前の海ともお別れ。

     宿を出て、集落内にある巨大なガジュマルを見物。成長すると次々に枝らしきものが出てきて、地面に到着し、養分を吸って生き続けるのだそうです。ケンムンという妖怪が棲むという伝説があるののも頷けます。重なった枝は洞みたいになっていて、何かいそうな気配濃厚です。赤い車はホンダのビッツ。7日間乗り続けたレンタカーです。赤い車に乗ってみたかったので、うれしかった。

次いで訪れたのは瀬相港よりもさらに東に行った俵集落の小学校。こちらで、自然布の展示会を開いていると、海宿のスタッフたちにお聞きしたので寄ってみました。

    人口1900人というのに、加計呂麻島にはいくつかの小学校がまだ健在。こちらは6年前から休校になっていますが、再開のめどは立っていないのだそうです。いまは、木工作家や織物作家などがアトリエや展示場所として使っています。

    教室前の土間にいたカニ。この辺にいる沢蟹より大きい。

    芭蕉布の着物です。こちらでは、芭蕉を栽培して紡いで織っている作家・佐田亜矢さんと、麻やくずなど自然の草を採取して布を織っている方とのコラボ展示がおこなわれていました。ひときわ目立つのが、この芭蕉の古い着物なのですが、島の人にとっては古臭くて不要のもの。いまはほとんど捨てられていて残るのはわずかなのだそうです。

    麻と葛の織物。自然の光沢と色がうつくしい。

    こちらも自然布。右は琉球藍で染めたもの。本藍に近い濃紺が出ています。

    芭蕉の糸で織ったタペストリーは佐田さんの作品。島の植物で染色しています。

    芭蕉を採取して糸にする作業は冬行われるそうです。その芭蕉の糸をとるときにうたわれた労働歌がこちら。


    織物創作欲のむくむく湧き上がる展示でした。

    佐田さんの使っている織り機。

    こちらは初めてみましたが、枷にする道具だったかな。ののやというのは、佐田さんの屋号です。

    糸操り機は竹でできていました。


    佐田さんの作品いろいろ。左側のスカーフは、月桃の葉で染めたものだそう。実が赤いから、葉を煮出した液からも赤い色が出るようです。染めてみたい!

     展示見学後、小学校の裏手にある郷土資料館に、佐田さんが案内してくれました。館を開けてくださったのは、この地区の区長さん。彼は、この集落で生まれ育って、中学校卒業後集団就職で大阪へ。40年ほど働いたのち、10年くらい前に戻ってきたそうです。両親の面倒を見るため、彼のように退職後帰島する人もけっこういるということです。

     大きな籠の背負い方を、佐田さんが見せてくれました。

     編みめがうつくしい。この編み方のざるは、諸鈍の施設でもたくさん見かけました。

     籠好きには、うれしい展示。

     あるもので利用の精神、すばらしい。自転車の車輪でできた糸紡ぎ。

     桶を浮かせて水中を見る道具。

     昭和30年代まで使われていたというランプ。区長さんは、私たちと同年の生まれ。その彼が小学校の低学年の頃、やっと島に電気が引かれたのだそう。奄美大島が日本に復帰したのは1958年のこと。「本島から徐々にインフラ整備が行われたので、離島は後になった」と区長さん。石油ランプの掃除はこどもの仕事だったそうですが、「いやだったあ!」と。

     愛知の片田舎で大正末年に生まれた私の母からでさえ、ランプ掃除の話など聞いたことがありません。たぶん、彼女が生まれたときから電灯はあったとおもいます。戦後、インフラ整備が遅れた、という話を島で何気なく聞いていましたが、いま思い返してみると、戦前にも電気が全くひかれていなかったということです! この島は(たぶん沖縄やほかの島々も)、中央からずっと放っておかれたのでしょう。軍事拠点にするなどの利用はさかんにされたのですが。

     薩摩藩に支配されていた時代、奄美全域はサトウキビ栽培が強制され、島民の食糧を作る場所が次々にサトウキビ栽培地に替えられていたそうです。ひとびとは、薩摩藩の役人の目の届かない、山奥の密林のような場所でひそかに米や雑穀の栽培を続けていたそう。区長さんによれば、黒糖をちょっと舐めただけで罪人の刻印である入れ墨をされたとか。「植民地にはなるもんじゃないよなあ」とおっしゃいました。飢饉の折に食べられたのがなり粥。「なり」とは芭蕉の実を解毒して粉にしたものです。それで仕立てたおかゆは「まずかった。二度と食べたくない」と彼。  

      この地方の独特の行事「浜下れ」などのおりに持っていった、いわばピクニック弁当箱。これ、ほしい。
    
      昭和の中ごろまで作られていた、島の典型的な民家。屋根はかやぶきですが、この辺りより小さめで傾斜が急に見えます。

      こちらが内部。暖かい土地ですが、囲炉裏はあったそうです。この囲炉裏で煮炊きをしていました。それにしても狭い。江戸時代の落語に出てくる長屋の一軒分くらい。

      家の建築方法が写真で解説されています。台風の襲来を真っ先に考えての建て方でしょうから、全体は小さめで平屋があたりまえだったようです。

      区長さんや、8年前に島に移住した佐田さんから聞いた話は、なかなか興味深いものがありました。区長さんのように他県に出て働く島の人は昔から多いのですが、他の地方出身者のように、「〇〇県人会」というのはないのだそうです。かわりにあるのが「〇〇(学区)人会」。集落ごと、あるいは学区ごとの結束がつよく、鹿児島県人会はあるのでしょうが、みんな入っておらず、奄美大島出身者の会や加計呂麻島出身者の会はないのだそうです。ないからといって、郷土を思う気持ちが少ないのではなく、非常に狭い地域の「郷土」に対する思いが半端でないのだそうです。

     加計呂麻島は、集落一つ一つが離れていて、集落ごとに風景が違い、文化が違うのだそう。山を隔ててそれぞれが自給自足していた土地だろうから、集落ごとの特色が際立っているのかもしれません。

     俵集落を出て東に。瀬戸内町のガイドブック「まんでい」に載っていたドラム缶桟橋があるのは、木慈。ここで車を止め、森の中へ。ガジュマルを見に行くためです。

途中で一緒になった地元の女性が教えてくれたイチジクの原種。以前、アフリカにあるイチジクの原種、というのをテレビで見たことがありますが、かたちはそっくり。

      森の中のガジュマルはさらに幻想的。

      大木が二本、枝をさしかわしています。

      サトイモそっくりの葉の植物はガガイモ。芋がなるそうですが、かなりの毒だそう。


      ガジュマルのある森に行く途中の広い敷地は、何十年か前の台風でひどい痛手を被り、数軒あった家がすべて立ち退いた場所だそう。一見すると、土砂災害にあったというわけでもなさそうですが、立ち退かないといけないほどの理由が一個だけではなかったのではないかな、と思われました。離島にいることの不自由さが極限に達して退去を決意したのではないかと。

     さて、薩川を過ぎ、西端の集落実久に。こちらは諸鈍と反対に、源氏にゆかりのある土地だそう。日本の南の端の小さな島に、源氏と平家の流離譚がそれぞれ残っているとは、おもしろいことです。

     実久の海は、「実久ブルー」と言われるほど特別に美しい青色なのだそうです。島に到着以来ずっと曇り空しか見ていないわたしたち。ここで、ようやくかろうじて、青い色の海をみることができました。

     実久の集落には、サンゴの石垣があちことに残っています。


     よくできていて、うつくしい。

     石垣にたてかけてある長い棒は、サンゴの中にひそむハブをよけるためだそう。怖くて石垣のそばには近づけませんでした。

     実久の海を後に、薩川にもどり、この日と翌日の宿になるしびらんかに到着。こちらは、こじんまりした普通の住宅です。家の手前の低い石垣に貝がならべられていました。

     道を隔てたところに船着き場が。

   隣は薩川小学校。次の日は学芸会だと、宿の主人から聞きました。

   なんと校庭には奉安殿が。戦後取り壊さなかったのが不思議。

    小学校の斜め道向かいには中学校があります。

    こちらは閉校しているらしい。

     海から山に向かって流れているように見える川。


     海宿でテーブルに飾ってあった植物です。珍しい。

     この花もよく見かけました。

     宿の料理はもりだくさん。

     新鮮な魚料理を満喫しました。

     島で育ったシイだそうです。香ばしくておいしかった。

     


    




          

    



    








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奄美・加計呂麻島の旅③

2018-12-31 16:30:03 | 小さな旅
    加計呂麻島二日目は、また曇り空。まだ一度も青い海と空の景色を見ていない。海宿5マイルの朝食は、夕食同様、じんわりと身に染みる味のご飯とおかずと味噌汁でした。パパイヤの酢の物が珍しかった。 

    さて、この日は、はじめて海に入る日。little life に向かいます。

    宿のある伊子茂から、little life のある嘉入までは、20分ちょっと。ジェットコースター道路と言いたいくらい起伏の激しい道でした。でも、対向車も後続車もほとんどない道なので、気は楽。
   
    いくつかの山を越えて着いた嘉入の集落は、島のほかの集落同様、数軒の平屋の小さめの家はあるのに、歩いている人や子供は皆無。私の家のあたりも人を見かけることはほとんどないのですが、国道には車が通り、集落はもっとずっと広がっています。やはり、かなりの過疎地です。

     宏美さんと再会を喜び合った後は、いよいよ海へ。嘉入の浜からカヌーで海に乗り出します。

      カヌーというのは総称で、宏美さんご夫婦の指導で私たちがこぎ出したのは、シーカヤック。左右交互にブレードというはねのようなものがついたパドルを使うのですが、水しぶきが上がり過ぎたり、水中にちゃんとオール?が沈んでなかったりと、多分ほとんど用をなさなかったのとおもいます。でも、私の乗ったカヤックには宏美さん、友人のカヤックには宏美さんのご夫君・博之さんが乗って、すいすいこいでくださったので、私たちは彼らが指さす方角にある小さな島や、水中のサンゴ礁をゆっくり眺めることができました。広い海原の散歩、楽しかった。

      30分ほどこいだあと、海からしかたどり着けない浜に到着。浜に近づいたころ、宏美さんが「あ、イノシシだ!」と叫びました。見ると、うりんぼうらしい小動物が、山側の茂みから浜辺に走りでてきました。「うりんぼうがいたらそのあと親イノシシが出てくるから、気をつけなきゃ」と宏美さんが言った途端、同じ方角から大きめのイノシシが走ってきました。大きいと言っても、島のイノシシは少々小ぶりらしい。わたしは、稲武でイノシシの爪痕をいやというほど見ましたが、実物を見たのはこの時が初めてでした。

       浜辺には、サンゴがいっぱい。海宿の浜にも嘉入の浜にもありましたが、こちらはことのほか多い。

       ムラサキオカヤドカリとかいうめずらしい貝も。オカヤドカリは島に多いそうですが、天然記念物なのだとか。
       こちらはビーチロック。コンクリートブロックのかけらが海を漂い、流れ着いたものかとおもったら、自然にできた石なのだそう。

       昨日もあちこちで見た植物。この浜には、ことのほか多い。アダンという植物だそうです。いかにも南国っぽい実です。

       やっと少し、日差しがでてきて、青い海が見られるようになりました。

        博之さんが浜で作ったトマトソースのパスタ。お昼ごはんです。

         満足げなわたしたち。私が加計呂麻島に行きたいと思った最も大きな理由は、宏美さんがブログやフェイスブックで紹介している南の島ののどかな生活の一端を経験したかったから。その一つが浜辺での食事。しかも、わたしたちとあと一組のlittle lifeの常連客の他は、だれもいません。贅沢な時間を過ごしました。

         常連の方は若いご夫婦。奄美が好きになって、移住してきたという彼らは、年にかなりの回数加計呂麻島にわたり、カヤックに乗って素潜りを。魚は彼らが釣ったもの。あとで宏美さんが「上から、アカハタ、スジハラ、アオチビキ、隠れているのはフエダイの一種」と教えてくれました。昨晩の宿で出てきたキホタといい、この魚といい、南の海の魚は色がカラフル。

         シュノーケリングだけなら泳げなくても大丈夫というので、近視用のゴーグルの購入もお願いし、その気満々でいたのですが、いざウェットスーツを着て海に入る段となると、急に緊張。その時のこわばった顔がこちら。シュノーケリング経験済みの友人は余裕の笑顔です。
 
         午後の指導は、博之さん。ゴーグルを海水で濡らしたヨモギで拭き、唾を塗る。曇らないための準備を整え、ひれをつけてもらって、いざ水の中へ。京都にいたころは時々プールに通ってはいたものの、十分に泳げるとまではいえない私。こちらに来てからは1度しかプールに行っていないので、なかなか緊張がほぐれず、ともすればシュノーケル?から水を飲むはめに。でも、博之さんのやさしく丁寧な指導で、何とか沖合に。といっても、浜から数十メートルでサンゴ礁の群生する場所に行けるのが加計呂麻島の特徴だそうなので、そんなに遠くまで行かずに美しい海中の世界に出会えました!
        
         黄色や紫、緑のサンゴのあちこちに、深い割れ目があり、そこは真っ青だったり真っ暗だったり。比較的浅いところにあるサンゴ礁から別のサンゴ礁のあるところまで行くのに、深い海溝のような場所があり、そのあちこちから色とりどりの魚が湧き出るように泳いでいました。

      
      浮き輪につかまって前に進みながら(その浮き輪を博之さんに引いてもらった)、彼が説明してくれたたくさんの魚の名前。ほとんど忘れてしまいましたが、あとで宏美さんから、魚の特徴と名前を教えてもらいました。

    「イソギンチャクに暮らしていたオレンジのお魚は「クマノミ」
白い尻尾で体がやや黒く、手のひらサイズ、たくさん群れていたお魚は「アマミスズメダイ」
岩陰に潜み、目が大きいく赤いお魚は「アカマツカサ」
黄色い体で細長く、群れているのは「アカヒメジ」(黄色いけど「赤い」と名がつくのは刺激すると赤くなるから)
シマシマの綺麗な模様のお魚は「ニジハギ」
浅いところにいた綺麗な模様のお魚は「ムラサメモンガラ」
浅いところの綺麗なブルーの小さなお魚「ルリスズメダイ」」

    クマノミとルリスズメダイはおぼえています。ルリスズメダイはことのほかきれいでした。海蛇が泳いでいるのを見た時は、ちょっとぞっとしました。

     40分ほどで浜に引き返しました。二人が流木を集めて火を焚いて、コーヒーを入れてくれました。想像以上に体が冷えたので、あたたかい焚火はありがたかった。

     陽が傾きかけたころ、浜を後にして嘉入の浜に戻りました。二人の住む小さな古民家の周りは、南国の植物でいっぱい。

      こちらは月桃の葉と思って写真を撮ったら、あとで宏美さんがカルダモンの葉だと訂正してくれました。

      ほんとの月桃はこれ。宏美さんから届いた1月現在の写真です。月桃は、草餅を包むのに使ってあった葉っぱです。

      月桃の実は、このきれいな赤い実。以前、ドライフラワーとして買ったことがありますが、もとはこんなにきれいな赤い実だったとは! 形もおもしろい。
 
      野菜畑にはイノシシの掘り返した跡が。

      バナナはほったらかしでもできるそう。

      パパイヤも。うらやましい。一休みののち、宿へ。

       前夜とは違う魚のお刺身でした。刺身があまり好きでないという友人の分も、平らげました。手前の洋風の煮ものに入っているのは島のタケノコ。

       パッションフルーツの酵素ジュース入りの酎ハイをいただきました。

     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奄美・加計呂麻島の旅②

2018-12-30 17:47:40 | 小さな旅
   女友達との初旅二日目は、いよいよ目的地加計呂麻島へ。
  
   小さな港ですが、表示盤?の示すところは壮大。

   早めについたので、付設の市場で買い物しました。温州ミカンの類なのでしょうか。厚い皮のこの青いミカンは、黄色くなると酸っぱくなるそう。こちらと逆です。

   ふてぃもちは、草餅。ただし、餡は入っていません。包んである草は月桃。この月桃の薬効はたかく、加計呂麻ではあちこちでみかけました。ほんのりした香りが上品です。素朴なこのもちは、私たちのこの日のお昼ご飯位なりました。

    市場の売り子さん、聞けば大阪から移住した方なのだそう。同僚の地元女性に頼んで書いてもらった地元の言葉がこちら。

      ちなみに、売り切れの商品はサータアンダギーだそうです。

      フェリーかけろまの発着受付所。定刻を過ぎているのに、まだ開かず。

       やっと出発。はじめてのフェリー乗船です。

      古仁屋から加計呂麻島の瀬相港には25分ほどで到着。

      最初に車で行った先は、島尾敏雄文学碑のある公園です。こちらに特攻兵器震洋の格納庫が残されているので、その見学に。

      場所は、瀬相港から10分ほど。でも、私たち以外誰の姿も見当たりませんでした。

     島尾敏雄は、海軍の将校として昭和20年にこの島に赴任。島の人たちは、島を守ってくれる部隊だとおもって歓迎しましたが、実は彼らはモーターボートに爆弾を積んで、敵艦に体当たりするという任務を負った特攻隊。島尾はその部隊長でした。

     特攻艇の格納庫は、岩の崖に作られ、今も残っています。

     モーターボートはレプリカ。彼らは毎日極秘に訓練をし、出発の命令を待つ日々をこの静かな入り江で過ごしました。
 
     しかし、出発命令はついに下されず、8月15日を迎えます。この経緯をつづったのが、「出発は遂に訪れず」。彼は、島の庄屋の娘で小学校教師だったミホとの恋に落ち、ミホは、島尾の出発後自害する覚悟でいました。このふたりはのちに結婚するのですが、ミホは戦後の東京での島尾との生活で、精神を病み、子供二人とともに一家は奄美に移住します。

     入江は静か。敵に知られずボート発進させるのにふさわしい場所と目されたのでしょう。それにしても、ボートは想像以上にちゃちでした。空の特攻機同様のお粗末さに唖然とします。

     加計呂麻島は、奄美大島の南端の瀬戸内町に含まれるのですが、その本島側の瀬戸内町にも、数か所の戦跡があります。加計呂麻島は、現在の人口は1900人ほど。稲武より500人ほど少ない、静かで小さな島なのですが、明治時代から軍事の施設が作られ、戦略上の重要な場所とされてきました。

島の西端にある安脚場もそのひとつ。海辺の細い道を西に向かって進んだのですが、あいにく戦跡のある場所に至る道が通行止めで断念。どこにも、その表示はなく、近くで時間待ちしていた加計呂麻バスの運転手さんに道を尋ねたら、そういうこたえがかえってきました。のんきというかなんというか。

     加計呂麻島は、島のほとんどが山。山と海の間のわずかな平地に集落が点在しています。道を走っていると、目立つのがお墓。立派なのです。家は、どこも小さいのに。

     さて、この日の最後の目的地は、諸鈍。比較的大きなこの集落にある公の施設で、諸鈍シバヤに関する展示物を見ることです。展示室でひときわ目を引くのは、ユタの衣装、芭蕉布です。

     諸鈍シバヤは、諸鈍に古くから伝わる伝統的なおまつり。シバヤは芝居だそうです。源平合戦に敗れた平氏の一族の一人、平資盛が流されたという伝説があるのがこの集落だとか。彼が故郷を懐かしんで、あるいは彼を慰めるために、島人が演じた芸なのだそう。素人が作ったことを強調するためか、へたくそに描かれた仮面をかぶった人たちの所作がユーモラス。

     展示館の外は、デイゴの並木が有名なところなのですが、花の盛りは五月だそうで、いまは、台風26号?のおりに波が運んだ膨大な砂が、遊歩道の脇にうずたかく積まれていました。

     通りすがりの年配の男性によると、「堤防があるからかえって土砂がたまった」とのこと。「魚も堤防のせいでかなり減ったよ」と。

     海辺沿いの廃屋。戸はアルミサッシなので、何年か前までは人が住んでいたと思われます。ブロック塀は島でしばしば見かけました。風や潮をよけるために作られていたサンゴの石垣が、いつからかブロック塀に変わったのではないかと思われます。

     諸鈍をあとに、宿泊先の伊子茂へ。夕暮れ時に到着しました。

     宿は、海宿5マイル。宿からすぐに海岸に出られます。左の白い建物は小学校。学校に通う、宿の子供らし男の子が教えてくれました。

     宿の建物は、黒砂糖の工場だったものだそう。

     いくつかの棟があります。どれも平屋ばかり。

     こちらは、自然食の料理を出してくれそう、とおもって決めた宿。夕飯は、こんなでした。

     お刺身は、たしかキホタ。聞いたことのない南の魚でしたが、新鮮でおいしかった。

     そのほかのいろいろの料理、今はすべて忘れてしまいましたが、どれも味付け、素材ともに満足。

      みそ汁は魚のあらのだしでしたが、臭みを感じず、いただけました。刺身のお醤油が鹿児島特有の甘いお醤油でないのも、よかった。

      
  

       
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奄美・加計呂麻島の旅①

2018-12-30 15:05:01 | 小さな旅
  10月の終わりから11月の初めにかけて、奄美大島に旅行しました。めあては、加計呂麻島。奄美本島の南の港からフエリーで25分ほどのところにある小さな島です。

  この島には知人が住んでいます。彼女の名前は天野宏美さん。little life という名前の海のツアーガイドをご夫君とともにこなしています。8年ほど前、大阪の友人が私宅に彼女を連れてきたことがあり、そのときから、「いつか加計呂麻島に行ってみたい」とおもっていました。

   この、聞きなれない名前の島、実は私はずいぶん前から知っていました。何十年も前のことですが、島尾敏雄の「出発は遂に訪れず」を読み、その後、彼と彼の妻・島尾ミホとの激しいやり取りを描いた「死の棘」そのほか、彼の著書を読み漁ったことがあったからです。知った人が住んでいるなら、いつかいってみたいものだと、ぼんやりおもっていました。

   今年の初夏のころ、同年の友人と話をしていたときに、彼女が「死ぬまでに、一度でいいからスキューバダイビングをしたい」と言いだしました。「死ぬまでにしたいことがあり、そのことが何とかすれば実現可能なら、するべきだ」と、二人の意見がそこで一致。「では、加計呂麻島へ行こう」ということに突然決まりました。

   宏美さんにさっそく伝え、先方の都合と、島の気候の最もいいときに行く、ということになりました。それが10月の下旬から。以来数か月にわたって、ぼつぼつ準備を整え、6泊7日の奄美の旅が実現しました。
 
   10月31日、早朝セントレアを発ち、鹿児島へ。それから奄美空港へ。こちらでレンタカーを借りてまず向かったのが大島紬村。泥染めをする、というのも、今回の旅大きな目的でした。向かう途中、郷土料理鶏飯をたべに、ひさ倉という大きなお店に。白いご飯の上に鶏肉や卵、ショウガなどの薬味をのせ、鶏スープをかけて食べるもの。奄美が薩摩藩の支配下にあったとき、藩の役人をもてなすために供したのがこの鶏飯だそう。といっても、もとは鶏の炊き込みご飯の様なものだったそうで、汁かけになったのは戦後のことだとか。

   いずれにしろ、これがごちそう?とはじめは思いましたが、濃厚なスープをとるのに、ぜいたくなほど鶏肉をつかうのでしょう。ちょっとわたしには重すぎましたが、のこさずいただきました。帰りしな、スタッフに、米の産地を尋ねると、「鹿児島本土からきている」とのこたえ。昔は米作もさかんだったのだそうですが、いまは米を作る人がいなくなったのだとか。そういえば、道中、田んぼはほとんど目にしなかった気がします。

    さて大島紬村は、大島紬の会社が経営している施設で、予約なしでも泥染め体験をさせてくれるところ。20年、泥染めに携わってきたという年配の男性から手ほどきを受け、私はTシャツ、友人はバンダナを染めました。

    泥染めのできる場所は、奄美でも、北のほうにかぎられているのだとか。ずっと昔、本島の北に隕石が落ち、そのせいで鉄分のたくさん含まれた泥のある場所ができたのだそうです。

    大島紬の染色に使う泥染めは、簡単に言うとシャリンバイの鉄媒染。シャリンバイは、このあたりに山野のどこにでも生えている木だそうです。地の呼び名はテイチギ。

    その木のチップを煮だし、出てきた色がこちら。

     染め体験では、模様付けした布を染め液に浸してすぐに石灰の上澄み液に入れ、さらにまた染め液に入れて、石灰の液に。これを数回繰り返します。

     そのあと、泥の池に入って、泥を擦り付けながら染め付けます。

     色留めの薬の入った鍋で数分煮た後、よくよく水洗いをして完成。

     ほんとの大島紬の泥染めは、染めと媒染の全工程が85回! それであれだけ黒い色が出るのだそうです。でも、この赤茶色もいい。ただいまタンスの引き出しで待機。来夏、着ます。

     この木はマンゴー。この秋襲来した大型台風で幹ごとぽきんと折れたそうですが、一月ほどで新しい芽が。自然の勢いの激しいところですが、再生も早いのにびっくり。

     泥の池の全景。南国の風景です。

     染め体験後は、織り工場の見学です。今回初めて知りましたが、大島紬のあの複雑な柄を作るためには、まず木綿糸で捨て織り、ということをするのだそう。目的の模様を作るためには、糸をどのように絞ればいいのかを、その捨て織りの際に、決めるらしい。説明はしていただいたのですが、ややこしすぎて理解不能。とにかくものすごく大変な仕事だ、ということだけは実感しました。

とにかく気が遠くなるような作業の繰り返し。1反織るのに相当の時間がかかります。高価なのは当たり前と納得でした。


 この柄はよく見かける大島紬の典型的な柄のようです。

      何十年も続けてこられたベテランばかりの織り子さん。しょっちゅう直しをしていました。この直しは当たり前の作業のようです。いらした方は皆、ご高齢のかたばかり。でも最近、若い女性がはいってこられたそうで、案内してくれた社員はうれしそうでした。

      工場や泥池の周辺は広い庭。展示館や売店のほか、こんな建物が移築されていました。昔の貯蔵庫だそうです。高床式。

      ススキか何かかやぶきの屋根。こんもり盛り上がっているのが南方風。この形式、加計呂麻島で見た昔の写真集に載っている民家の屋根と同じです。

      ネズミに食われないため、高い屋根裏に貯蔵。

      この大きなカメに、穀物類をはじめなんでも入れていたそうです。

      ところで紬村は空港から車で20分ほどの場所。体験と見学の後は、一路南端の港町古仁屋へ向かいました。途中のコンビニで買ったのが、こちら。ミキです。

      ミキは、「お神酒」。奄美は、薩摩藩の支配に入る前は、琉球王国の属国でした。琉球では「ノロ」と呼ばれる巫女が人々の生活の隅々までかかわっていましたが、奄美でも、この「ノロ」の制度がしかれ、かなりの影響力をもっていたとか。ノロたちが口で噛んで醸した酒がお神酒。神に供えていたその酒を、江戸時代、薩摩藩の下に組み入れられてからはサツマイモを米に混ぜて材料として使うようになり、今のミキになったそうです。奄美の人たちの常飲する飲み物と聞いていたので、買ってみました。

      原材料は、米、米麹、サツマイモ、砂糖。水あめも入っていたかも。甘酸っぱい、素朴なカルピスのような味です。実は、奄美に行く直前、知人から自家製のミキをもらいました。そのミキには砂糖は入っていなくて、こくのある酸っぱい調味料という感じでした。オイルと塩を混ぜてドレッシングにしましたが、こちらのミキはかなり子供向き。コンビニの若いスタッフに「ミキはお飲みになりますか?」ときいたら、「飲みません。あまり好きではない」とのこたえが。稲武の子供たちが干し柿を食べなくなったのとおなじで、ちょっとと複雑な甘さが苦手の若い人が増えているのではないかしら。

      紬村のある龍郷から古仁屋までの道中は、トンネルだらけでした。153号線や257号線をしょっちゅう走っている私でも、こちらのトンネルの多さとその長さに驚きました。そしてどれも、けっこうあたらしい。ということは、けっこうカーブや高低差の多い道だったのですが、つい最近までは、もっと難路がつづいていたということなのでしょう。

      古仁屋の宿についてから食べに行った食堂でのばんごはん。たしか角煮定食をたのみました。モズクのてんぷらも頼んだため、量が多すぎて食べきれず。奄美大島の旅、一日目の報告でした。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きららの森を歩きました。

2018-07-06 11:33:03 | 小さな旅
   先週の日曜日、設楽町のブナの原生林・きららの森をはじめて歩きました。ずっと前から行きたかったところ。やっとかないました。山歩きメンバーは、女性ばかり総勢6人。

   段戸湖を囲むようにして森が広がっていて、その森の中に周遊できる道が作られています。どこをどう歩くかによって距離が変わってきます。私たちは1時間20分程度で歩ける最短コースをたどりました。多少の急坂はありますが、登山というほどのしんどさはなく、私にはちょうどいい加減の山歩きコースでした。

   枯葉の中にカエルがじっとしていました。棒でつついても動ぜず。緊張のあまり固まっているのかも。

    ギンリョウソウを見つけました。自前では生きられないというこの花。可憐でもあり、不気味でもあり。

    行程の3分の一ほど行ったところに湿地帯があります。雨のあとの桟道が滑りやすくて怖かったので、あまり写真が撮れませんでしたが、コケや水、折れた木々が美しかった。

    湿地帯に、バイケイソウの群落が。

     様々な苔が生えていました。名前を覚えたい。

    水草なのですが、葉の形がおもしろい。スイレンの形に似ていますが、切れ込みが激しい。

    ブナの木のこぶ。子供が背負われているように見えます。

     ちょっと離れて撮りました。こういうこぶ、けっこうできています。枝を落とされたり、何らかの外傷をうけたとき、修復のため、こういうのができるらしい。

      ヒノキの大木。とても赤くてきれいな皮です。ヒノキや杉の皮で染めると、まさにこんな色になるのですが、ここまで赤い皮は見たことがありません。

       千両や万両の実に似ていますが、時期が違う。何の木かしら。

       ただの苔の胞子? かわいい。

      突如現れたオブジェ。

      入り口でもらった地図に載っていたこの森で一番大きなブナの木。数年前たおれ、今は新しい生命が倒木を栄養にして一杯育っています。

      この木は、確か枯れ木。その内倒れるのでしょうが、まだしっかり立っています。

      シロモジの木だと思うのですが、シカの食害がひどい。

      道をふさいだ倒木に作られた階段。かしこい!

      ブナの木の白い肌と緑のコケのバランスがすばらしい。

      林道にかけられた橋。ドラム缶でできてる?

      週の初めころ、下山や足助でツキノワグマの目撃情報があったので、とにかく大声でしゃべりながら山歩き。途中、バードウォッチグ中のご夫婦やグループに何組か出会いましたが、人数はすくない。大声を出してもはばかりなく歩けました。

     鳥の声はかなりの種類聞こえました。家のあたりでは聞いたことにない鳥も多かった。声と姿と名前を知りたい。

     私は買っただけでほとんど使ったことのない2本杖(正式名は知りません)を持参して、ヨガインストラクターの友人の指導を受けながら歩きました。はじめはよたよたしましたが、慣れてきたら楽。四足歩行は合理的かも。下りの道も、先に杖をついて下ると、負荷が杖にかかるので安心です。

     さて遅めのお昼ご飯は、ジビエレストランmuiで。この日のジビエプレートは、鹿肉カツ、イノシシとおからの肉団子、シカとイノシシのソーセージ。特別に店主の猟師・清水潤子さんが撃ったカモの肉の燻製をごちそうしてもらいました。これが絶品! 適度の脂と肉のうまみがじゅわーっと口中に広がり、野生肉でないと、このおいしさはうまれないのではなかろうか、と思われる味でした。

      清水さん、この日も午前中、檻にかかったウリンボウを撃ちに行ってきたとか。瓜に似ている柄だからウリンボウと名付けられたと話には聞いていましたが、実物を見てつくづく納得。その向こうは、小鹿です。こちらは母鹿のおなかにいた腹子なのだそうです。こんなに小さくても立派にすべてそろっているのに感心しました。

      山歩き、それも広葉樹の森歩きは、すがすがしい。遠くまで行かなくても、この辺りはちょっと行けば、楽しんで歩けるところがいくつもありそう。この夏も秋も、歩きたい! 楽しみがまた増えました。
    

           
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東栄町・花祭りフェスティバルにいってきました。

2017-11-10 00:50:11 | 小さな旅
   大学で民俗学に興味を持った姪が稲武を訪れた時、「この辺に鬼にかかわるおまつりとか伝統芸能とか残っているところはないか」ときいたので、即座に教えたのが、北設楽郡東栄町や豊根村など天竜川水系に伝わる花祭りです。

    昨年の夏に彼女が稲武を訪れた時には、東栄町にある花祭り会館に連れていき、今年は、11月3日に行われた東栄フェスティバルに同行しました。

    花祭りは鎌倉時代末期から室町時代にかけて、修験者から伝わったのがはじまりで、以来700年、脈々と今に続き、国指定重要無形文化財になっています。

    わたしは、10数年前、このおまつりを、北設楽郡からはるか離れた豊橋市で見学したことがあります。

    戦後まもなくのころ、花祭りの伝承地域のひとつである豊根村のいくつかの集落の人たちが、もと陸軍の演習場だった豊橋の高師が原に開拓に入り、地元にある御幸神社であたらしく花祭りをはじめました。私が見学したのは、その花祭りです。1999年の1月4日のこと。

    こちらの花祭りは、あちこちの集落の人たちの花祭りが合体した形なので、その夜であった男性によると、「ここの祭りはちゃんぽんで雑種の花祭り。ほんとの花祭りはこんなんじゃない」。でも、はじめて見た私には、興味深いおまつりでした。それで、当夜撮った写真と見聞きした話を一冊のノートにまとめました。

  花祭りが開催されている神社は御幸神社。小さな場所に結構な見物客が詰めかけていましたが、お互い知り合いばかりのようで、和気あいあいとした雰囲気でした。

    祭の後半、翁と媼の面をかぶった二人がおぼつかない足取りで出てきました。

わたしの見聞記には、「写真を撮っていると、「今からエッチするから急いで写真を撮れ」と、またまた別のおじさんから指令を受ける。(中略)若い衆が急いで蓆を広げていた。そこへ翁が倒れ込んで上から媼がのしかかった。おじさんたちが「逆だがや」と叫んでいたが(後略)」とあります。

このシーン、おかしかった。年寄りの夫婦が子種を作る真似をすることが、豊穣への祈りにつながるらしい。

    この夜は、豊橋市の条例に従い、祭りは10時過ぎに終了。「ちゃんぽんの花まつり」と評した男性から、「本物をぜひ見にこい」と言われましたが、その後、奥三河に移住しながら、花祭りに触れる機会のないまま過ごしました。今回やっと、姪の希望で東栄町に赴き、3つの集落の花祭りのいくつかの部分を見学できました。

こちらは河内保存会の朝鬼。赤鬼と青鬼、白鬼のしぐさがこっけい。

    「山」と胸に書いてあるのは、足込保存会の山見鬼。「山を割り、生命の再生を図り、生まれ清まりの重要な役割を担う鬼」と、チラシにあります。

    ところで、河内集落の鬼と、足込集落の鬼には、決定的な違いがあります。それは、角があるかないか。河内にはなく、足込にはあるのです。

     こちらは、東栄町中設楽に住む友人にもらった観光用の袋。11集落の鬼の写真が載っていますが、このなかのいくつかの鬼は、角がありません。

     これも友人にもらった中設楽の花祭りのカレンダー。中設楽の鬼も角がないのです。これらの角のない鬼、もともとはあったのに、なんと村人たちが切ってしまったのだと、昨年の夏、花祭り会館を訪れた時に知りました。

     明治時代、廃仏毀釈の運動がさかんなおり、仏教系の行事として伝わった花祭りの存続が危ぶまれるほどの事態に陥ったのだそうです。その時村人がとった行動がすごい。先祖から伝わった鬼の面の角を切り取り、名前まで変えたのです。榊鬼、山見鬼といった名称のかわりにつけたのは、記紀に記載されている素戔嗚尊や猿田彦。神の名前に変えてしまいました。要するに、神道の祭りにかえたのです。この日見た河内保存会の角のない鬼は素戔嗚尊になっていて、なんとヤマタノオロチ退治を演じて見せました。

もっともこの花まつり、起源は修験道に由来するのだそうですが、長い年月の間に田楽やお神楽など種々の芸能が入り混じって、多分信仰も神仏習合。だから、仏教本来の信仰が純粋に伝承されてきたということでもなさそう。

     それにしても、仏教から神道に乗り換えてでも、鬼という名前を変えてまでも存続したかったおまつり。信仰よりもまつりをすること自体に意味を見出していた、ということなのでしょうか? 豊橋のお祭りの時も、この日垣間見たいくつかの集落の断片的な祭りにも、神や仏への信仰というより、長い間伝わってきた祭りを行うことによって生まれる一体感を大事にしている、という印象を強く持ちました。     

     東栄町の集落の花祭りの始まる前に行われた、設楽町貝津田というところの棒の手。棒の手は豊田市のあちこちにものこっていて、何十年も前に一度、見たことがあります。こちらも中世に始まった伝統芸能なのですが、もともとは武装した農民の技をみせるものでもあったようで、こちらではなんと、剣もなぎなたも鎌も真剣だそう。大けがをして救急車に運ばれたことも何度かあったとか。

      長野県飯田市遠山の霜月まつり。このおまつりも、国の重要無形民俗文化財で、宮廷で行われた祭の形をそのまま模した「湯立ての神事」がほぼ原形のままの形で残されているのだそうです。神主の衣装を着た男の人たちのおどりが、はじめはゆっくり、途中から早くなり、複雑な足さばきになるところがおもしろかった。一番偉いとおもわれる年配の男性の着ている白い衣に「神」とかかれているのも珍しくおもいました。

      静岡県浜松市の寺尾のひよんどり。こちらも国指定重要無形民俗文化財。火踊りがなまったものだそうです。こちらも鬼が出てきて、勝手に暴れ出すのを、人間がなんとかおちつかせようと?しているしぐさおかしかった。

      最後は、東栄町中在家保存会の湯ばやし。まつりのクライマックスの一つのようです。それまで舞台で演じていたのを、観客と同じ位置に湯を張った大鍋をしつらえて、若い人たちが湯たぶさというわら束を持って舞います。この時の掛け声が、花祭り独特の「テ~ホヘ、テホヘ」。片足飛びのしぐさは、昔の農民独特の足さばきのよう。地元の人らしい、数人の年配の人たちは、満面に笑みを浮かべて、拍子をとりながら舞手に合わせて踊っていました。

      同じ動作をくりかえしくりかえしするうちに、ほかの舞い同様、しだいに動作が早くなり、最後は釜の湯を観客にふりかけてまわります。この湯を浴びると、一年間無病息災に暮らせるといわれているそうで、観客は奇声を発して遠巻きにしながらもさして遠くにも逃げず、笑いあいながら見守っています。

     ほんのさわりだけといった感のある花祭りでしたが、地元の人たちはうれしそうでした。小さい時からなじんだまつりは、彼らにとってとても大事なものなのだろうな、と思えました。

    でも、子供のころから転校と転居を繰り返してきた私には、祭りを大事に思う、ということがどういうことなのか、実をいうと理解することは難しい。

    昔のように、一つの村の中でほぼ同じ仕事をし、暮らし方も一緒で、同じ宗教を信じ、同じ風習を変えないでいるのであれば、祭りは大きな意義があると思えます。

    でも、今のように、村と言えど都会とさして変わらず、仕事も暮らし方も生き方も違う人の集まりになっている時代に、こういう祭りを続けるというのは、どういうことなのだろう、とおもわないでいられません。続けることが楽しい間はいいけれど、無理が生じた時はたいへんだろうな、とおもいました。

    ともあれ、和太鼓集団志多楽の演奏も含めて、伝統芸能鑑賞の一日は楽しかった。

     








    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関西旅行1日目~京都びお亭・金の羊・染司吉岡~

2017-06-21 17:34:04 | 小さな旅
   先週中ごろ、4年ぶりに京都大阪の旅に出ました。

   このところ、名古屋の繁華街に出ることすら億劫になり、遠くへ行きたいと思うものの、交通機関を使っての遠出は、途中の駅での雑踏や乗り換えの煩雑さがいやで、なかなか踏ん切りがつきませんでした。でも、とにかく日を決め、一部同行する人も決め、後に引きにくいような状況を作り、出発の日を迎えました。

   朝6時50分。稲武どんぐり温泉発の快速稲武便に乗り込みました。このバス、昨年から運行の始まった、稲武・豊田市駅間の直行便。市街地の高校に通う学生のために運行しています。これまでは、市街地の高校に通うには下宿生活が必須だったのですが、この直行便のおかげで1時間ちょっとで市街地につけるため、下宿の必要がいちおうなくなったのです。

   私が乗ったバスには、高校生3人、大人は私ともう一人。ほぼノンストップなので、足助病院経由の便よりはるかに速い。快適でした。でも、想像通り、あまり利用客がいないようなので、いつまでこの路線が続いてくれるのか、心配になりました。

   久々の名古屋駅。新幹線の表示がわかりにくくてあたふた。のぞみに乗り込み、やっとおちつきました。ところが京都駅に着いた途端、南北をまちがえて反対側に。おまけに観光客らしい人の大半が外国人であるのにもびっくり。彼らに好まれそうな土産物店が前にもましてできていて、さらにわかりにくくなっていました。

   そして極めつけはコインロッカー。コインを入れれば閉まるロッカーではなく、IT化されていて、閉め方がわからない。自動販売機みたいなところで、操作しないとしまらないのです。しかも、ぼやぼやしていると自分がいれたロッカーのナンバーが消え、元に戻ってしまいます。わたしとおなじくITロッカー初体験の初老の夫婦とはちあわせしたので、さらに複雑な様相を帯び、最後は私たちのような客のためにときどき見回りしているらしい管理人が操作してくれたので、やっと無事に荷物を預けることができました。その間約20分。だいぶ時間を食いました。

    教訓。日進月歩のIT化にはついていけなくて当然。できないからといってあわてないで、わかる人が来るのを気長に待とう。

    京都在住の友人と烏丸御池で待ち合わせ。いっしょに、東洞院のビルにあるオーガニックレストラン・びお亭へ。

    こちらは私が京都にいたころからあった小さなレストラン。健在であることネットで知り、なつかしくて訪問。あいかわらず狭いお店でしたが、昔と違って昼前からお客でいっぱい。最近のオーガニックブーム・マクロビブームにちゃんと乗れたお店の一つだったようです。ランチは870円。おからの春巻き定食を頼みました。味はまずまずでしたが、玄米ご飯はちょっとぼそぼそが気になりました。

    食後、友人といっしょに四条を抜けて松原通へ。友人はしきりに近頃の京都の変貌ぶりを慨嘆。錦通りの端を通った時、「話の種に、錦の変わりようを見て」というので、ほんのしばらく歩きました。

    平日の昼間、暮れでもないのに、たくさんの人が行きかっています。そのほとんどが外国人。西洋人も多いけれど、飛び交っている言葉は中国語のほうが多そう。通りの両側の店は、生鮮食品店だけではなく、スイーツの店や土産物屋が目立ちます。四条通は、あまりに人の数が多いので、歩道を広げたそう。かといって、道全体が広がったわけではないので、必然的に車道が狭くなり、以前から渋滞気味のこの通りはさらに渋滞がひどくなったといいます。

    私が京都にいた最後のころ~今から10数年前は、京都人気が落ちていたのだったか、観光客相手の店の経営がずいぶん苦しくなったと聞いていたようにおぼえています。それが息を吹き返し、街並みも、看板やネオンなどはずしてあちこちきれいになったと、ニュースでは見聞きしていたのですが、住人の感想はまた違うようです。

    ただわたしは、以前は「いちげんさんおことわり」といわんばかりのそっけないかまえの老舗だったのところが、店頭からも品物が見えるように配置し、ちょっとのぞくだけでも歓迎されそうな雰囲気に変わったのは、喜ばしいことだな、と思えました。

    松原では、織物愛好家の友人行きつけの糸屋・金の羊へ。自分独自の織りができるようになるのは先の話ですが、材料はいろいろそろえておきたくてふたかせ、太めの糸を購入。

     その後、昔すんでいた東山三条あたりから新門前通りを歩き、染司吉岡の実店舗へ。暖色系と寒色系の種々の色合いがとてもきれい。ふだん、絹より綿での染色が多いので、ここまで鮮やかな色が出ません。それに、色の出し方も洗練されているのでしょう。店主の吉岡氏の本、また買おう。

   川端通りを南に下り、喫茶フランソワへ。

   昔たまに利用したことのある老舗喫茶店です。ある時期、頻繁に通った名曲喫茶・ミューズはなくなり、そのほかいろいろ消えた店の多い中、こちらは残っていました。

  友人とは四条京阪で別れ、大阪の友人宅へ。友人とは、この10年毎年数回稲武まで来て、料理講習の講師を務めてくれているChieさん。いまはだし料理研究家として活躍しています。

   この日の彼女のふるまってくれた手料理のかずかず。さかなも野菜も、定期的にトラックで行商に来る人たちから買った新鮮な材料です。魚は瀬戸内のある島から、野菜はオーガニック栽培の農家から。こういう便が普通に来るのは、街ならでは。うらやましい。
  
   質のいいアボガドが手に入るところが見つかったからと、作ってくれた一皿。うえにのっているのは、味噌仕立てのあんです。こういう食べ方ははじめて。よくあっていました。

   素材の持ち味を大事に引き出すChie さんの料理、やっぱりおいしい。稲武での彼女の教室、秋には開催の予定です。


    

      

    

    
     

   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダム湖に沈む集落のウバヒガン桜を見に行きました。

2016-04-06 23:15:57 | 小さな旅
   稲武の隣町・設楽町のダム建設予定地の中にある、八橋地区に行ってきました。一昨年にはほとんど移転を終え、集落は今はもう全く無人。住居跡らしい礎石が、あちこちに残っているだけでした。

   ドライブの目的は、取り壊された八橋小学校のそばにあるという、大木、ウバヒガン桜を見るためです。

   この場所は、戦前まで旧八橋小学校があったところで、高台にあるため、水没からはまぬかれることになったのだとか。学校は下の平地に戦後移転した、と立て札にかかれていました。桜は予想以上に立派でした。

  さて、私は、保育園の年長組の秋から小学校3年生の春まで、設楽町田口に住んいました。中年になって、田舎暮らしをしたくなったときに真っ先に思い浮かべたのは、こどものころに見た、設楽の山や田畑の風景でした。

   その設楽にほど近い稲武にすむようになったのは、12年前。そのころには、すでに設楽ダム建設の話が持ち上がっていました。でも、反対運動も根強くあり、おそらく計画は中断するだろうという噂が聞こえていました。ダムを作ることが、かならずしも、治水や水資源確保に有効とは限らないし、生態系が大幅に変わることになるわけなので、ダム計画がなかなか進まないのは、いいことだと思っていました。

   ところが数年前に突然、ダム建設が本決まりし、急ピッチで工事が進められました。

   私は設楽町の田口小学校時代、八橋小学校に遠足に行ったことがあり、ダム湖に沈むと聞いたときからずっと行ってみたいと思っていました。
 
    先日設楽町関連のフェイスブックで、この八橋小学校のほど近くにあるウバヒガン桜が五分咲きだとの記事をみて、はじめて、学校のそばに、樹齢の古いこの桜があることを知りました。私はずっと、小学校の校庭にある桜見物が、あのときの遠足の目的だと思っていましたが、たぶん、そうではなくて、この大きなヒガン桜を見ることが目的だったのでしょう。

    ウバヒガン桜のある高台からは、あたりの風景が一望できます。小学校跡地らしき場所もだいぶ離れたところに見えます。

    私の記憶では、桜の木の下でお弁当を広げていた時、校舎の中の子供たちの姿も見えたのですが、あれはどうやら偽造記憶のようです。

    こちらがたぶん、学校の跡地。寒村の小さな小学校だったようです。やはり、建っているうちに見にきたらよかった。

    このきれいな川の流れも、昔見たのかもしれません。いずれにしろ、設楽町の中心田口からこちらまでは約6キロ。小学校1年生か2年生の足で、よくあるいたなとおもうのですが、当時としてはたいしたことのない距離だったのでしょうか?

    行きは、稲武から峠を越えて川向から八橋への道をとったのですが、ダム工事のせいで、大型トラックが多くて狭い道を走るのがこわかったので、帰りは逆の道をたどり、津具を抜けて名倉に出ました。

    あぐりステーションなぐらのそばの川岸の桜、5分咲きくらいでしょうか? 約1.3キロ続く桜街道です。一度、端まで歩こうとおもいつつ、毎年はたせずにいます。きょうも、数百メートルで引き返しました。

    稲武の瑞龍寺の枝垂れ桜もそろそろ見ごろのようです。カフェ・ヒトトキのある古橋懐古館周辺も、桜が咲き始めました。山里の春、これからが本番です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする