ずっと前「美味しんぼ」で山地酪農という酪農法を知って、感動したことがあります。山地酪農とは簡単に言うと、整備されていない山に牛を放ち、笹や下草を食べさせることで、牛は自然の生活を営むことができ、山は健康状態に帰ることができるという酪農法です。
岩手にある中洞牧場が、この山地酪農を実践している先駆的な牧場です。
このあたりの、間伐の行き届いていない荒れた森も、この酪農法で新しい価値を生み出すことができるのではないかと、ずっと思っていました。だれか、そういう人が現れないかな、とひそかに登場を願っていました。
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そうしたら、いました!
この夏あたらしく知り合った、隣村の長野県根羽村の人たちから、根羽に数年前に移住した酪農家が山地酪農を実践していると聞いたのです。
先日やっと念願かなって、友人たちと一緒に根羽村の農場、ハッピーマウンテンを訪ねることができました。
農場主は、幸山明良さん。ハッピ-マウンテンは、「幸(福な)山」さんのお名前から命名なさいました。農場のふもとで彼と落ち合い、案内していただきました。
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子供たちを集めて自然観察ツアーなども企画している彼から、最初に教わったのはムラサキシキブ。うちにもある木なのですが、この木の実が意外においしい。食べたのは初めてです。
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彼が菌打ちしたなめ茸を収穫。ぷりぷりでぬるぬる。
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道端で見つけたベニバナボロギク。自然状態で見るのははじめてです。この草、雑草料理研究家の前田純さんの草の会で何度かお菓子や料理に使いました。味のあるおいしい草です。
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稲武から行った5人以外は、根羽村と隣の浪合村の方たち。彼らは、Covid-19感染拡大防止のための自粛期間中、毎日のようにこの山にやってきて、牛と親しんだり植物を観察したり木切れや土で遊んだりしたそうです。彼らのおかあさんは、「ほんとにここがあってありがたいことでした。毎日が校外学習でした」と話していました。
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こちらは、農場に入ったすぐのあたり。信州大学の学生たちが取り付けた装置があります。
「このあたりは、最初に一頭を放った場所です。当時は笹の原。牛は一年でほぼ食べつくし、植物の生態が変りました。放牧による土に対する圧力も加わって、今はパイオニア植物であるタラやキイチゴ、タケニグサなどが生えています。装置は、豊かな山とは何か、ということをさまざな角度から調べるために取り付けました」
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こちらは、土砂崩れでできた沢に置かれた装置。水量や濁りの度合いを調べているのだそうです。
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地層が3つに分かれている場所を幸山さんが見せてくれました。一番上は腐葉土。その下が黒土。そしてその下は粘土層。粘土層には水は浸透しないので、黒土と粘土の間には、パイプと呼ばれる穴が開いています。木々が育つには黒土が必要なのですが、一年の間に作られる黒土はたった1mm。この場所の黒土は40センチほどあるので、作られるのに400年かかったことになります。気が遠くなるほどの長い年月をかけて、この緑の山ができているのだな、と改めて実感しました。
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この山の80%の植物は牛の飼料になるものだそうで、幸山さんが支払う餌代はゼロ。ヨーロッパでの酪農はいまも放牧が主流だそうですが、冬になると牛舎に入れざるを得ず、冬場の餌代は必要です。でもここでは、冬でも茂っている笹が豊富にあります。だから年間を通して餌代は不要なのです。
単に餌代だけの問題では、もちろんありません。
「今は、子供たちを自由に遊ばせておける山というものがなくなりました。根羽村の70%は人工林ですが、うっそうとしていて、下草は伸び放題。気軽に山には入れません。そこに牛を放つことで、山の管理を助けてもらっているのです」
牛は山の保全と食糧生産の二つの柱を担う重要な役割をしているというわけです。彼の農場の広さは12町歩。牛は1頭当たり1町歩あると、食糧自給ができるそうです。
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山というよりなだらか丘の続くこの場所。3年前に幸山さんが来たときは、杉、ヒノキ、カラマツとあとは笹ばかりの人工林でした。それをほぼ一年かかって仲間とともに木を伐り出し、道を作りました。
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あちこちに落ちている黒い塊はうんこでした。それと知らず踏んでいましたが、驚いたことに新しいうんこも臭くない。うんこにだけ生えるというキノコを発見。このキノコはワライタケという毒キノコ。名前だけ聞いていましたが、こんなところで目にすることができるとは!
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肛門内部の壁の襞がそのまま残ったうんこ。牛の糞と言えばべちゃっとしていて臭い、と思っていました。
あれは、下痢便なのだそうです。幸山さんによれば、一般の酪農法で飼われている牛のうんこには、栄養を摂らせるために与えたトウモロコシや麦の粒がそのままの形で便に交じっているそう。高いお金を出して買った飼料の効果が出ていないということです。もったいない。
狭い牛舎で無理な飼い方をされ、目の前にある食べ物だけを食べるよう無理強いされているせいで、あんなうんこになるのでしょう。運動不足もあるし、ストレスもすごいとおもいます。
このうんこを拾って畑に漉き込んだら、いい肥料になりそうです。
「牛は食物繊維をものすごく分解します。胃袋の中にある菌の量がすごい数なのです。そして、その胃袋で炭水化物とたんぱく質を合成する能力もすごい。実の形がそのまま出てくるというのは、胃の中の菌が少ないから分解されていないということです。栄養も摂取できていない」
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牛と幸山さん。彼は自分を酪農家とは言わない、とおっしゃっています。「あえていうなら牛使い」と。ここで出会った牛はみんなおだやかで、幸山さんに教わったやり方で体をなでると、気持ちよさそうにじっとしています。もちろん幸山さんは牛にとっては別格のようで、飼い主を信頼している犬のように彼の周りにたむろします。
一般の酪農家は、牛の角を切るのは当たり前。鹿の角と違って、牛の角は血管が通っているそうなので、切られるときはものすごく痛いはず。それにあるべきものがない、というのは彼らにとっては不自由をかこつことになりそう。
そのうえ日本の酪農家は、牛のしっぽまで切るのだそうです。搾乳の際に邪魔だからという理由で。この牧場にいる牛は幸せ。山も牛も幸せです。だからハッピーマウンテンなのだなと実感しました。
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農場の頂上には東屋が作られていて、おおきないろりが掘られています。幸山さんのフェイスブックには、彼が焚火をすると牛たちが続々集まってくる動画がのせられています。動物が火を怖がる、というのは家畜の場合あたらないのかしら。それともほんとはみんな暖かいのが好き?
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こちらには5頭の牛がいて、雄は一頭だけ。その雄がほかの4頭の雌を妊娠させ、現在彼女たちはみんな妊婦。牛のお産は難産だと聞いていましたが、幸山さんは否定します。たしかに、彼女たちはこのゆったりした生活をいつもどおりしながら、月が満ちたら、うんこと同じように赤ちゃんもすぽっと産み落とすことが出来そう。
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みんな毛並みがきれい。うんこがすぽっと出るから、肛門周りもきれい。人間が洗ってやるとかブラッシングするとかいった世話はたぶんしていないと思います。
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横たわった牛にハグするカウカドリングを一人ずつさせてもらいました。このハグ、ヨーロッパではセラピーに使われているそう。
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牛の呼吸や心臓の音を感じながら、静かに寄りかかるこのセラピー、とてもここちよいものでした。安心感が全身に満ち溢れるような感覚になりました。牛はおとなしくなすがままにさせてくれ、信頼できる保護者の膝や懐に抱かれる、そういう感じなのかな、とおもいました。たぶん包容力に満ちた母親のもとで育った乳幼児は、知らずとこの優しさにいつも包まれているのでしょう。
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この時の感触は、翌日まで続き、なんだかあの時の気持ち良さを逃したくなくて、体中でその心地をなめまわしているような気がしました。
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カラマツの紅葉が美しい頂上付近。幸山さんが、タムシバの木を教えてくれました。クロモジとはまた違った芳香です。いつまでも嗅いでいたくなる香りです。人工林を伐採することで豊かな生態系に戻りつつある山。すがすがしい。
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ふもとの林でみんなでお昼ご飯を食べてその日は解散しましたが、牛のいる山が懐かしく思われて、またすぐにでも訪ねたくなりました。
幸山さんは、子供たちといっしょに山で学ぶツアーなど、さまざまな企画を実施。これからさらにおもしろいことがこの山で実現しそうです。わたしは、あの草だけ食べた牛の乳をおすそわけしてもらえる企画を楽しみに待っています。