風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

太宰治『帰去来』を読んで(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第349話)

2017年05月04日 07時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
『帰去来』は、太宰治の中期の作品。結婚をして安定した生活を送っていた頃に発表された。
 題材は、タイトルのとおり帰郷だ。不義理をして義絶状態になっていた郷里の津軽へ知人の助力を得ながら十年ぶりに帰ったときのことを書いている。
 太宰は冒頭で「のほほんと生きてきた」などと書いているが、彼は決してのほほんと生きたわけではない。ままならない自分と格闘し、非合法活動、心中、薬物中毒とすさまじい嵐をくぐってきた。もちろん、破滅型の太宰がたどってきた道は常人であれば許されないことであり、目の前の生活の糧を得るのに懸命な世間の目から見れば、そんな太宰の「道楽」は、おぼっちゃんの「のほほん」ということになるのだが。
 ただ、この「のほほん」は世間にむけた照れ笑いだけではなく、当時の太宰の気分が色濃く表れている。幾多の戦いや葛藤を通り抜けて、ようやく落ち着いた気分になれたのだ。嵐続きの航海の後、よく晴れた凪の海へ出たようなものだったろう。心の平安をようやく手にすることができた。
 心の春に巡り合った太宰に、ある日、ふるさとの使者がやってくる。メッセージは、
「一度帰っておいで」
 だった。
 勘当して義絶状態にはあったが、ふるさとは彼を忘れてはいなかった。いつ里帰りさせるのか、タイミングを見計らっていたようにも思える。無茶苦茶な生活を送ってきた太宰がなんとか生き延びてこられたのも、ふるさとの人々が陰で支えていたからだ、その支えていた人がふるさとへお帰りと誘いにきて、北帰行に同行した。
 不安となつかしさが入り混じった里帰りだが、郷里の津軽に着いた太宰が真っ先に出くわしたのはふるさとの訛りが聞き取れないという事実だった。太宰は裏切りのうしろめたさを抱く。
 ふるさとを離れて出会うのは、自分自身の影にほかならない。ふるさとの懐に抱かれていたのでは、自分自身と出会うことはできない。母の地を離れ、独りぼっちになって初めて、裸の己と向き合うことができる。精神的な意味でへその緒が切れるようなものだ。太宰は、ふるさとの言葉を忘れてしまうほど、東京でよそゆきの言葉を操りながら必死になって自分自身と戦ってきたということなのだろう。
 高校生の頃、初めて太宰を読んだとき、彼の描く羞恥心や照れ笑いや自己否定や懺悔といったものが、心に痛かった。自分のことが書かれているようで身につまされた。だけど、大人になってから読み返してみると、太宰は安直に自分が駄目だと言っているのはないとわかった。太宰は、聖なるものにあこがれた人だった。太宰は聖書をよく読んでいたが、そこに書かれていたことを真摯に受けとめ、自分も純な愛になりたいとあこがれ、でもやはりそうできない自分に失望を覚え、それで自分は駄目だと書いていたのだ。聖なるものにあこがれ、それに躓く日々、それが太宰の格闘だった。
 訛りを忘れていた太宰だが、しばらくするとすべて聞き取れるようになる。ふるさとと太宰を隔てていた膜が破れた。
 太宰は先に父の墓参りをすませ、恐るおそる実家へ入る。だが、太宰の心配は杞憂に終わった。みなそれなりに老いたが、長い間留守にしていた末っ子が帰ってきたという感じであたたかく迎えられる。
 太宰は、母と仲良く歓談するのだが、太宰がいくら説明しても、母は太宰が作家になったことを理解しなかった。てっきり書店を開業したものとばかり思ったのである。そこで太宰は十円紙幣を出して母へ差し出す。一人前に仕事をして稼いでいることをそうして証明したかったのである。安心させたかったのだ。母はそんな太宰を見てクスクス笑う。周囲を困らせてばかりいた甘えたの末っ子が精一杯背伸びして親へお小遣いを渡そうとする姿を見て、かわいくてしかたなかったのだろう。
 ただ、太宰は父代わりの長兄を恐れていた。太宰を勘当したのも長兄だ。勘当の許しはまだ出ていない。長兄と太宰が出くわすことになれば、腹でどう思っているかはともかくとして長兄は「なにしにきたんだ。帰れ」と言わざるを得ない。この帰郷は長兄の留守を狙い、会うべき人に会ったところで、こっそりと帰るように計画したようだ。それで太宰は、実家には泊まらず、親戚の家に泊まり、逃げるようにして東京へ帰ってしまった。
 わずかな滞在だったが、里帰りをするのとしないのとでは大きな差がある。長兄の許しをもらうには、太宰が昔やらかした醜聞スキャンダルはあまりに大きくて、それにはまだ時間がかかりそうだ。それでも、太宰はようやくふるさとと和解することができた。ふるさととの和解――それはままならない自分とすこしは折り合いがついたということでもあった。
 この短編を読み返すたびにあたたかい気持ちになる。



(2016年3月27日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第349話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


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