散歩がてら、上海人の家内が通っていた母校跡地まで連れて行ってもらった。母校跡地は閑静な住宅街のなかにあった。周囲には租界時代風の洋風アパートがたくさん残っている。静かでよいところだ。
彼女は上海市内の延安西路付近にあった交通運輸学校へ通っていた。入学したのは一九八〇年代半ばのことだ。中国はまだ発展していなくて、今のように自動車が街にあふれるわけでもなく、人民の主な乗り物は自転車だった。家に電話のある家庭は稀だった。
交通運輸学校は、「中専」に種別される学校だ。日本で言えば高専に相当する。大学進学率の低かった当時は、中専が人気だった。職業訓練を受けられるので就職しやすい。普通科高校よりも、中専を選ぶ人のほうが多かったほどだ。その学校は、交通科、運輸科、発動機科、財務科といったコースが設けられ、発動機科の学生がエンジンについて学ぶための小工場まだあったそうだ。家内は財務科に入学した。四年制の学校だったので、最初の一年間は学校内の寮に住み込み、後の三年間は自宅からバスで片道一時間かけて通った。
学費は無料。無料どころか、生徒には毎月二十一・五元の生活費が支給された。当時、工場の工員の初任給は約三十六元だから、その六割ほどになる。月々の食費が十五元ほどで、それを差し引いても手元には六、七元が残る。ちなみに、街角の売店で売っている安いアイスが二角(角は元の十分の一の単位)だった。
学校には大きな図書館があり、バスケットボール用の体育館もあった。体育館の天上にはミラーボールが取り付けてあって、夜は体育館がダンスホールに早変わりして学生達が社交ダンスを踊ったりしたのだとか。家内が入学した当時、十四階建ての高層校舎が建築中で、家内が通っている間に完成した。そんな高い建物はまだ少なかった時代だ。よほど財政が豊かな学校だったらしい。
家内は、簿記や会計などを習いながら楽しく過ごした。先生はみな大学の教授でレベルは高かった。改革開放が始まって数年後の時代だったから若い先生が多く、先生方といろいろおしゃべりも楽しんだようだ。学校の前には立体交差のトンネルがあって、外国から来賓がくると、その車は必ず前を通る。交通運輸学校の学生は毎回駆り出され、小旗を振りながら来賓を歓迎したのだとか。
毎朝、バスのなかで席を取って待ち、家内がくると席を譲れってくれる男子生徒がいた。彼は席を譲ることで愛情を表現していたのに、彼女はただ当然のように席に坐るだけで彼には話しかけなかった。彼も彼女へ話かけることはしなかった。その男子生徒はけっこうハンサムなのであこがれている女子生徒は多かったそうだ。家内は悪い気はしなかったものの、恥ずかしく話しかけられず、淡い恋心はそのうちそのまま終わってしまった。
彼とは別の男子生徒が、「ジュースをおごってあげる」とモーションをかけてきて、彼女はいつも売店でジュースをおごってもらっていた。だが、毎回ジュースを飲み干すと「バイバイ」と言って彼を置き去りにしてさっさと家へ帰ってしまった。こちらは彼が子供に見えて相手にする気になれなかったのだそうだ。何度もジュースをおごってもらいながら話もしないとはいささかひどいけど、家内は三人姉妹の末っ子なので、ちゃっかりしているのかもしれない。ラブレターをもらったこともあるが、名前が書いていなかったのでそのまま放置して相手にしなかったという。
二年生の時、クラスで事件が起きた。
クラスメイトの女の子が付き合っていた二年先輩の彼氏と喧嘩をした。彼女は学校でも評判の美人だったそうだが、もう彼氏と別れたい気分になっていたようだ。彼はむっとしてむりやり彼女の手を引こうとした。二人は言い争いになった。
早速、美女の母親が学校へ呼び出された。まだ保守的な時代なので、男女交際が明るみに出ると周囲の目は厳しくなる。美女の母親は先生と話しているうちに気を失って倒れてしまい、彼氏の親も呼び出されこっぴどく叱られた。美人は一週間学校を休んだ。すっかりしょげてしまった彼女は、それから長い間誰とも口をきかなかったが、スキャンダルの記憶が薄れるにつれ徐々に元気になった。
家内は誰と恋をすることもなく、言い寄って来る男子につれなくしながら恋愛小説を読みふけり、そこそこに勉強してごく平凡に卒業した。
卒業する際、学校から職業分配を受けて就職した。中国では一九九〇年代後半まで職業分配の制度があり、学校が卒業生の就職先を割り振った。職業選択の自由はなく、学生は学校の割り当てに従わなくてはならない。僕が雲南省で留学していた時、漢語コースの先生はみな職業分配によって先生になった人たちばかりだった。学校から先生になりなさいと命じられて先生になったのだ。
ただし、この職業分配はコネがものを言う。親や親戚が共産党の幹部だったりするといい職場が分配された。交通運輸学校の生徒は交通局幹部の子女が多く、彼らは街中にオフィスを構えたいい就職先があてがわれたが、家内は下町のごく普通の家庭に育ったのでいいコネなどあるはずもない。就職先は町はずれの国営企業の工場の財務部だった。
彼女はこの職場が退屈でしかたなかったそうだ。給与計算と決算の時は忙しいが、それ以外はあまり仕事がなく、暇を持て余した。
その頃、中国は改革開放の好景気に沸きかえっていた。外へ出ればいくらでもチャンスがある。このまま工場の財務部で退屈な仕事を続けたくないと思った彼女は、就職してから二年後に工場を辞めた。ただし、学校は生徒を送り込む際、四〇〇〇元の手数料を工場へ支払っている。労働契約には最低四年間は勤務する義務が盛り込まれていた。二年間勤めたので、違約金としてその半分を学校へ払わなくてはならない。両親が当時の彼女の半年分の給料にあたるそのお金を工面して、家内は自由になった。
交通運輸学校は数年前、上海市の郊外へ移転した。跡地には高層マンションが建ち並んでいる。これも時代の流れなのだろう。その周りをぶらぶら歩きながら、家内の青春時代の話をいろいろと聞き、僕たちは地下鉄に乗って帰った。
(2016年4月30日発表)
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第354話として投稿しました。
『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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